1892(明治25)年
7月17日
子規、松山にて落第の通知をうけとる。
「小生夏目と共に大阪へ行き、同人は岡山に滞在中に御座候。小生遂に大失敗を招き候。可賀(がすべし)可弔(とむらふべし)」(7月17日付大谷藤治郎宛て)
「帰郷して、
母親になつやせかくすうちは哉
御聞及びにも候はん、小生終に落第の栄典に預り候故、
水無月の虚空に涼し時鳥
辞世めきたりとて大笑ひ致候。」(7月20目付五百木良三宛て)
7月17日
露仏、軍事協定調印。
7月19日
この日付けの漱石の子規宛て手紙。漱石、岡山で子規より落第の知らせを受けとり、その日のうちに子規の退学の決意を引き留める手紙を送る。
「貴地十七日発の書状正に拝誦(はいしょう)仕(つかまつり)候。・・・・・試験の成蹟面黒き結果と相成候由、鳥に化して跡を晦(くら)ますには好都合なれども文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり。君の事だから今二年辛抱し玉へと云はば、なに鳥になるのが勝手だといふかも知れぬが先づ小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願くば今一思案あらまほしう
鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす」(明治25年7月19日書簡)
7月19日
三津浜の「いけす」で子規・虚子・碧梧桐・伊藤可南、競吟する。(「松山競吟集」第2回))
7月23日
紡績業隆盛に伴い職工の争奪が激化し、大阪の紡績会社9社は「摂河泉紡績業同盟規約」40条を協定。しかし、大阪の企業のみでは問題は解決せず、8月、紡聯総会を開き、紡績規約の附則として「職工に関する規定」24ヶ条を議定、9月1日から実施。
7月23日
~24日 岡山地方に大雨が降り、漱石は洪水に遭遇する。旭川が氾濫して河畔にある片岡家でも浸水が床上五尺に及んだ。この時の大洪水で、県下の死者は74人、流突破損家屋は5千5百余戸。
水が出はじめると、漱石は「大変だ」と叫んで自分の本の入った小さな柳行李をかつぎ、県庁のある小高い丘に一人でいちはやく難を逃れた。丘の上で一夜を明し、25日から片岡家と親交のある財産家光藤亀吉の離れ座敷に厄介になった(~8月1日)。
7月23日
この日、一葉(20)の「五月雨」がようやく『武蔵野』第3編に掲載された。『武蔵野』はこの第3編で廃刊となる。
7月24日
石阪昌孝、横浜旧公道倶楽部、自由党懇親会出席。代議士の慰労と、伊藤治兵衛謀殺嫌疑者の無罪放免を祝う会。
7月24日
夜、虚子宅に子規・碧梧桐が集って競吟する(「松山競吟集」第3回)
7月25日
自由党政務調査会、従来の消極策(「政費節減・民力休養」)から積極策(鉄道事業など公共投資推進)への転換を打ち出す。星亨を中心としたグループ(自由党の今後の方針を、積極主義への転換と藩閥内進歩派との連携と定める)。
7月30日
松方内閣総辞職。
議会閉会後、品川の後任に河野敏鎌(改進党系)が内相に任命。国政の要の内相に民権派を任命した事に政府内で批判が強く、河野が選挙干渉に関して次官らを処分するにおよび、陸海相は辞表を提出し、松方内閣は総辞職。
7月31日
虚子宅二階で、子規・碧梧桐・新海非風・勝田明庵(主計)が集って競吟する。(「松山競吟集」第4回)
8月
この頃、与謝野鉄幹(19)、上京。1ヶ月ほど本郷菊坂の異母兄大都城響天の家に寄宿。義兄の経済困窮のため、前年より東京哲学館に学ぶ佐村八郎と貸間を物色し、本郷駒込吉祥寺境内の寄宿舎(空家)に「僧に乞ひ、一室月額十五銭の借料を約して移る」。「焼芋を以て一日一食に代へ、或は屡々絶食」の生活をしながら、上野の帝国図書館に通う。(石川啄木の父親も駒込吉祥寺で勉強したことがある。川上眉山の墓もある)
9月15日、落合直文門下生となり、以後直文の庇護と指導を受ける。
8月
高野岩三郎、帝国大学法科大学に入学。兄・房太郎の仕送り負担軽減。
8月4日
東京の左官職の仕手方、棟梁組合「壁職業組合」に賃上げを求めてストライキ。
1890~92年、この他に東京で石工・花崗石工・煉瓦積職人・大工等が請負制下での賃金低下と物価勝貴からスト。
8月4日
漱石の子規宛手紙。岡山での水害を報告、金毘羅に寄り松山を訪ねる旨知らせる。
8月5日
三津浜「いけす」に子規・虚子・碧梧桐・新海非風が集って競吟する。(「松山競吟集」第5回))
8月7日
米、ニューオルリンズ、ヘビー級プロボクシング初代チャンピオン、ジェームズ・コーベット。
8月8日
第2次伊藤内閣成立。山県有朋司法相、陸軍大臣大山巌、外務大臣陸奥宗光(48)。
井上(馨)内相、山県司法相、黒田通信相など、維新の元勲が多く入閣し、元勲内閣と呼ばれる。民党からも後藤農商務相と河野(敏鎌)文相を入閣させ、挙国一致体制を整える。陸奥は待望の外相に就任。
陸奥宗光:
明治16年釈放(獄中5年間、著述・読書、ベンサム功利論翻訳など)。翌年伊藤博文のすすめで欧米2年間。ウィーン公使西園寺公望を感嘆させるほどの勉学ぶり。明治19年帰国、外務省弁理公使、半年後特命全権公使に昇格。のち駐米公使、農商務大臣。
つづく
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