1893(明治26)年
4月
あさ香社結成。落合直文、直文弟鮎貝槐園、鉄幹、大町桂月。
4月
日本基督教婦人矯風会結成。
4月
徳富蘇峰「社会に於ける思想の三潮流に」(「国民之友」188号)。①蛇行派(現状満足派)、②慷慨派(愛国派)、③高踏派(キリスト教徒)。
国家主義への傾斜「国家は一つの天職を有するものだ。国民は堅実な精神、剛健な理性を鼓舞してこれを実践する義務がある。」。
4月
北村透谷「明治文学管見」(「評論」)
4月
川上参謀次長、対清作戦の予備調査のため清国・朝鮮に出発。
4月
ロシア、エドゥアルト・トール、ロシア科学アカデミーよりヤクーチャ北部スヴァトイ・ノース岬付近で発見されたマンモスの遺体調査を受けるが、満足できる形で残らず。のち、11月まで400kmの海岸線を調査。帰国後、ノヴォシビルスキー諸島の地質調査・化石氷河の性質について報告し、ロシア地理学協会よりブルジェワルスキー記念メダル、ロシア科学アカデミーとノルウェー政府より勲章を授与。
4月1日
アプト式鉄道の直江津線・横河~軽井沢間が開業。上野~直江津間が全通。
4月1日
根岸派の人々の月ヶ瀬紀行。
「明治二十六年四月一日、根岸派の仲間たちは、・・・・・月ヶ瀬に白梅を見に行く。メンバーは篁村、露伴、そして森田思軒、高橋太華、関根只好、幸堂得知、富岡永洗、楢崎海運の八人。途中、三重の古市で、大阪にいる須藤南翠も合流する。
この旅行の様子は、饗庭篁村の紀行集『旅硯』の巻頭に収められている「月ヶ瀬紀行」に詳しい。『国民之友』に連載(第百八十八号〜百九十二号)された森田思軒の「採花日暦」(単行本に未収録?)も同じ旅を扱っている。・・・・・
(略)
・・・・・気になるのは、彼らの月ヶ瀬行きが『東京日日新聞』の記事に取り上げられたことだ。
・・・・・彼ら根岸派の文人たちの旅行は、一種のパフォーマンス性を帯びた社会的話題でもあったのだ。
そういう行動をライバル視していた、別の文学グループもいた。
尾崎紅葉の硯友社である。
(略)
四月十二日というのは、明治二十六年、つまり篁村や露伴が、大阪の新聞社にいる須藤南翠との合流を一つの目的に月ヶ瀬に旅立った二週間後に、尾崎紅葉の発案(ということは、きっと彼ら根岸派のことを意識していたに違いない)で、硯友社の主力メンバーたちも月ヶ瀬に向うのである。
(略)
離反や篁村たちが訪れた時の月ヶ瀬は、「見下すかぎり梅にしてしかも真盛りなれば只白雲の谷より上る」ような美しさ(「月ヶ瀬紀行」)だったけれど、紅葉たちが訪れた時は、梅の花はすでに散っていた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
4月2日
漱石、子規に宛てた手紙で、本郷区台町の富樫方(現=文京区本郷5-31)に下宿したことを知らせる。後に同柴山方に転居。
午後(推定)、子規、常盤会寄宿舎で同郷会の帰りに立ち寄る。「訪漱石于本郷䑓町四番地富樫方」(「正岡子規『獺祭書屋日記』)
4月3日
一葉(21)、収入が途絶えて生活は逼迫の度を加え、4月3日には初めて伊勢屋に質入。「この夜伊せ屋がもとにはしる」
5月2日。「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ羽織二つ一風呂敷につゝみて母君と我と持ゆかんとす ・・・(西鶴の句をもじり)蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ」。
5月3日。「今日母君いせ屋がもとに又参り給ふ」
4月6日
この日付「よもぎふにつき」
「桃も咲きぬ 彼岸(ヒガンザクラ)もそここゝほころひぬ 上野も澄田(隅田川)も此次の日曜までは持つましなと聞くこそ いとくちをしけれ 此事なし終りて後花見のあそひせんなど まめやかに思ひ定めたる事あるをや 折しも俄かに空寒く 人はそゝろ侘あへるを あはれ 七日かほどかくてをあらなんと願ふもあやし」
(春寒が戻ってきたので、あと7日ほど桜が散らずにいてくれればと願う)
4月7日
この日から、一葉の「蓬生日記」始まる。署名は夏子。
4月8日
伊東巳代治が伊藤首相に「第四回機密金報告書」提出。
2~3月の主な出費:朝野新聞社500円、東京通信社200円、中央電報社200円等(通信社への助成開始)。年度末残高6万余あり、整理公債5万を購入し宮内省に預ける。
東京通信社:明治23年11月内務省警保局長清浦奎吾・同次長大浦兼武が警保局機密費で設立、この時点までに内務省直轄に移管。
日本通信社:明治24年1月設立。この時点での他の通信社。
時事通信社:明治21年1月設立、政府系、23年11月廃業。
帝国通信社:明治25年5月設立、改進党系。
内外通信社:明治26年5月設立、自由党系。
4月8日
一葉、夕方、母たきと湯島あたりを散歩。1時過ぎまで机に向かう。
4月11日
子規、漱石を訪問。
4月12日
この日から一葉日記「しのふくさ」が始まる。15日まで。飛んで22日の記載もあるが、「蓬生日記」と重複。
4月14日
出版法・版権法、公布。
4月14日
一葉、図書館に行く。上野は花盛りで酒に酔った人々の様が面白い。
4月14日
セルビア国王アレクサンダル・オブレノヴィッチ(17)、親政開始。
4月15日
一葉(21)、金港堂の藤本藤陰から、桃水が内股の腫物で悩んでいるとの話を聞く。
一度見舞に行きたいという一葉の願いを母は許さなかった。それならばせめて手紙を、との思いさえ聞き入れなかった。母は性病と考えていたのであろう。しかしこれは性病ではない。大腿にできた癖と考えられる。
一葉はそこで邦子に相談した。思いやりの心を持つ妹は、一葉に同情して色々に図る。
4月16日
漱石、子規宅を訪問。西谷虎造と同席。上野韻松亭での日本新聞社の集会に共に赴く。23日にも、漱石、子規を訪問。
4月17日
吉原の角海老の主人宮沢平吉の葬儀が谷中で行われる。岩崎弥太郎の葬儀以来の賑わいであったとのこと。
4月19日
一葉(21)父の知人が亡くなり葬儀に行こうとするのが、香典にする金がない。妹くに子は自分の着物を質入れしようと言うが、一葉はおおかたの着物を売ってしまって、これ以上は心苦しく、これを渋り、母妹から責められる。
「必竟(ひつきよう)は夏子の活智(いくじ)なくして金を得る道なければぞかし。かく有らばはてもしれぬをなど、いとこと多くのゝしり給ふ。邦子は我が優柔をとがめてしきりにせむ。
我こそは だるま大師に成りにけれ
とぶらはんにも あしなしにして」(「蓬生日記」明26・4・19)
4月21日
この日付けの一葉(21)の日記。
「わが心より出たるかたちなれば、などか忘れんとして忘るるにかたき事やあると、ひたすらに念じて忘れんとするほど、唯身に迫りくるがごとおもかげまのあたりにみえて、え堪ゆべくも非らず。ふと打みじろげば、かの薬の香のさとかをる心地して、
思ひやる心や常に行きかよふと、そぞろおそろしきまでおもひしみにたる心也。かの
六条の御息所のあさましさをおもふに、げに偽りともいはれざりけりな。
おもひやる心かよはばみてもこん
さてもやしばしなぐさめぬべく 」
4月21日
この日付け一葉(21)の日記。
「晴天、小石川稽古に行く。道すがら半井君を訪ふ。」(日記)
「かの家には思ひがけぬ事と只あきれにあきるるものから、人々うれしげにもてなさるることいとうれし。かの人も昨日今日はややここちよき方にてなど、起かへりつつ語る。いとこなる人の薬すすむるとて枕辺に有しが、さしも久しく音せざり給ひしな。御かはりども侍らざりしや。つねに御噂なん申し暮して、一昨日もさなり、御うへ申出し候ひしこと、と言へば、いと多かる薬を一と口のみて、おうわさはつねに申すことに侍り、とて何となくほほゑむ。」
桃水は硯と紙を持ち出して、一葉に旧詠でもいいんで1、2首書いてくれと頼む。一葉は辞退するが許されず、2首書く。しかし満足な出来でないので、「これは反古にして下さい。新しく持って来ますから」と願うと、「新しいのを持って来たら取りかえましょう」と言われる。
そして、29日の「日記断片その二」に、
「此ほどの反古に引かへ給てよと短冊もて行きしなれば、こひもて受とる。」
とあり、反古と新しい短冊を交換した。
4月24日
大山巌長女信子(17)、元警視総監三島通庸長男子爵弥太郎と結婚。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿