2024年3月22日金曜日

大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件        

 

樋口一葉「うもれ木」(『都の花』)

大杉栄とその時代年表(76) 1892(明治25)年11月9日~17日 子規、京都で虚子と紅葉狩り 子規、神戸で母八重・妹律を迎え京都見物をして共に東京に帰る 一葉、桃水と再会 宮武外骨、石川島刑務所を出獄 より続く

1892(明治25)年

11月18日

神奈川県有志懇親会、旧公道倶楽部で開催。干渉選挙への追求。内海忠勝神奈川県知事・警部長の転任を要求。22日、通常県会開会。紛糾。

11月18日

子規、叔父加藤拓川の親友陸羯南の主宰する新聞『日本』に正式に入社。月給15円。福本日南・三宅雪嶺・千葉亀雄・佐藤紅緑・長谷川如是閑などがいる。子規は、すでに「日本」に「かけはしの記」や「獺祭書屋俳話」などを連載、正式入社後は「日本」に俳句欄を設置するなど、俳句革新を推し進める。 


「当時の「日本」には、陸羯南を中心にして、福本日南、三宅雪嶺、古島古洲、末永鉄巌、仙田重邦などいふ人達が在り、文苑欄には国分青厓、本田種竹、小中村義象などが携はつてゐた。在野の論客詩人歌人の梁山伯と言つた形であった。若し今日から厳密に批判すると、其の梁山伯は、思想的にも芸術的にも可成り濃厚にクラシツク味を帯びてゐた。殊に其の文苑欄は、質より名に重きを置いた事大臭味が匂ってゐた。」(河東碧梧桐『子規の回想』)

11月19日

都筑郡柿生村片平の修広寺で政談演説会。石阪昌孝出席。

11月19日

田辺龍子(花圃)、三宅雪嶺と結婚。

11月20日

韓国、東学党の参礼集会。全羅道参礼駅、東学農民数千集合。第1代教祖崔済愚の伸冤と東学迫害緩和を請願。東学教徒の組織的威力を公然と示す。政府は東学教徒への略奪・迫害中止を約束。

東学:

崔済愚の始めた民間宗教。1864年教祖処刑。2代目教祖崔時亨は教団を再編。地方官が東学取締のため、民家に不法侵入し財産を没収したため、東学の農民の宗教的要求と不法収奪反対の闘争が結びつき、広範な地域的連帯を獲得。

緑豆(ノクトゥ)将軍・全琫準;

小柄で頑強なからだつきから緑豆将軍と称された甲午農民戦争の最高指導者・全琫準(1855~95)。没落両班の出身と言われるが分からないところが多い。出生地は農民戦争の震源地に近い、全羅北道高敞郡高敞邑徳井里とする説が有力。貧困のため、20代~30代前半まで各地を転々とする。その間、志を同じくする者たちと親交をむすび、その多くはのちに彼とともに挙兵することになる。

1890年ごろ東学に入教した全琫準は、やがて全羅北道古阜郡(現在は井邑郡の一部)に定着、92年より古阜接主(「接主」は東学地方組織の責任者のこと)として、この地方一帯の教団組織を率いることになる。

このころ東学教団の主流派は、反逆者として処刑された教祖・崔済愚のぬれぎぬを晴らし、東学の布教を合法化させるための運動を展開中であった。忠清道に根拠をおき「北接」とよばれた彼らは、全羅北道の参礼駅で数千人規模の集会を主催し、翌93年3月には40名の代表者をソウルに送りこみ、景福宮の門前で三日三晩、伏して国王に直接陳情するという行動に出た。

同じ頃、ソウルの各国公使館には「荷物をまとめてさっさと国に帰れ、さもなくば、きさまらを攻撃するから覚悟せよ」という内容のビラが張りつけられた。この掛書事件は「北接」の陳情路線に不満をもち、直接行動を主張する「南接」(全羅道を根拠地域とする)系統のグループが仕掛けたものであり、これを主導した人物は全琫準であったという。

この事件をきっかけに東学の運動は「反侵略」という明確な政治スローガンを旗印に掲げることで、中央政府との対決姿勢を急速に強めていくことになる。

11月20日

伊達宗城(74)、没。伊予宇和島藩主、公武合体論者、日清修好条規。

11月20日

この日付け漱石の子規宛て葉書。子規の母、妹の無事東京へ到着したことをよろこぶ。


「御一家御無事御着京之趣、大慶奉存候(たいけいにぞんじたてまつりさふらふ)。早速参上可仕のところ、御惘然(ごぼうぜん)の際御邪魔と存じ差控へ居候。御者母さま幷(なら)びに御令妹(ごれいまい)へよろしく御鳳声被下度(ごほうせいくだされたく)候。何れ其内拝趨(はいすう)万々(ばんばん)」

11月20日

~12月18日。『都の花』95号~97号に一葉の「うもれ木」掲載。田邊花圃が推薦文を書く。同じ号に、田山花袋「新梅川」が連載され、紅葉山人(尾崎紅葉)「二人女房」最終回も掲載。一葉の中央文壇への登場

11月22日

延期法律案、裁可。伊藤首相は自ら設置の「民商法施行取調委員会」(委員長西園寺公望)の結論に従い上奏。あしかけ4年の「法典論争」終結。

11月23日

漱石、太田達人と共に子規宅を訪問。内藤鳴雪(常磐会寄宿舎監督)と小川尚義・天岸一順・山崎精一郎(以上は常磐会寄宿舎寄宿人)らが来ている。

11月25日

自由党「党報」、10万トン建造計画発表。「海軍拡張の急要なるや、十年の久しきを待ち難し」、すみやかに「一大強国と相敵すべき海軍」建設要求。第4議会開会前に、自由党指導部は、「吏党とか民党とかを批評に構わざること」決議、「政府のことと雖ども助くべくは助く」る「積極構造的方針」決議(「官民調和論」が優勢)。自由党の中心部分で転向

11月28日

子規『日比谷八景』(『日本』俳句時事評)

11月29日

第4通常議会開会。

政府は前議会と同様予算案に建艦費を計上、その財源に酒税増税分を充て、民党の同意の見返りに地価修正に応ずる予定(地租は土地価格の2分5厘で、地価の低価格修正査定により、一時的な地租軽減ができる)。しかし民党は、政府提案を受け入れず。党幹部は政府との提携を模索中で、建艦費の必要性も認めているが、末端の党員には理解できず、また地主・豪農層を主要な支持基盤とする自由党にとって、政府案への同意は党存続危機をもたらすもの。

第4議会は、約900万円削減の修正案を可決し、政府がこの修正案に同意しない為、内閣弾劾上奏案を可決。

~2月。この議会に向けて横井タマ外338名の署名を集めた一夫一婦制要求を主眼とする「刑法及民法改正ノ請願」提出の動き、石阪昌孝は紹介議員の1人。紹介議員が定数に達せず請願は失効。

伊藤博文は海軍拡張予算通過させるために、「詔勅」下賜を乞う。その結果、官吏たちは6年間にわたり、俸給の1割を製艦費として献金することになる

11月30日

千島艦事件。釣島海峡でフランス~呉へ回航中の水雷砲艦「千島」とイギリス船「ラベンナ」が衝突。「千島」沈没し、貴島大尉以下乗員74人が殉職。

日本政府は、「ラベンナ」に過失ありとして損害賠償85万円を求める訴えを横浜のイギリス領事裁判所に起こすが、イギリス側は責任は日本側にあると主張。裁判所はイギリス側の主張を認め、日本に対して賠償金支払いを命じる。第5議会で対外硬派は領事裁判撤廃を唱え、改進党鳩山和夫らは訴訟当事者に天皇の名を用いたとして攻撃。

日本政府はイギリス本国の枢密院(最高裁判所)に訴えをおこし、上海のイギリス高裁で勝訴、賠償金1万ポンド(約9万円)で和解

この年12月2日、正岡子規、新聞「日本」に俳句時評「海の藻屑」と題し千島艦沈没を句で評す。「もののふの 河豚にくはるる 悲しさよ」。

11月30日

漱石、帝国大学で哲学担当のL・ブッセ退任帰国にあたり、送別の辞を英文で起草。


つづく

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