1893(明治26)年
3月
韓国、東学教徒、忠清道報恩郡俗離で2万人集会。「斥倭洋倡義」(日本西洋排斥、義を唱える)。全羅道金溝でも全琫準指導1万人集会。
29日、東学幹部朴光浩ら40人、漢城へ上疏、各国公使館にスローガン「斥和洋」を貼り付ける。光化門前で国王の解散命令により帰国。袁世凱は李鴻章に弾圧の必要性を訴え、李は軍艦靖遠・来遠を仁川に派遣。
3月1日
第4議会、閉会。
3月2日
一葉、図書館へ行く。「御伽草子」を10冊ほど読んで帰宅。
3月3日
三好退蔵、大審院長として復帰
3月3日
石川島の監獄から出獄(前年11月12日)した宮武外骨、かつての『頓智協会雑誌』にかわる雑誌『文明雑誌』を創刊。
3月4日
弁護士法公布。代言人規則は廃止され、代言人は弁護士と改められる。
3月5日
暖かい。鶯の声が聞え、梅も咲いている。
一葉、今日から小説「ひとつ松」を始めようと思う。
(この題では完成せず、「琴の音」となる)
6日、小説執筆2日目。夜更かし。2時過ぎ就寝。
3月9日
韓国、政府、日本商人の損害を4万余円とする調査書を提出。
3月10日
フランス領ギニア、フランス領コートジヴォアール、成立。
3月12日
漱石、隅田川堤で子規と出会い、百花園に梅を見、青陽楼で夕食をとる。
3月15日
神奈川自由党大会、横浜旧公道倶楽部で開催。自由党支部規則案決定、名称を自由党武相支部とする。
3月15日
一葉、昨日から家に金が一銭もなく、母たきが姉久保木ふじから20銭借りてくる。
3月17日
この日から一葉「よもきふにつ記」始まる。署名は樋口夏子。
3月20日
報効義会を結成した郡司成忠大尉(幸田露伴の実兄)ら63名、千島探検と越冬植民調査に出発。この日、言問橋から横須賀に向う。
3月20日
パナマ運河会社元社長・背任容疑起訴のフェルディナン・レセップス(88)裁判、禁固5年・罰金3千の有罪判決。
1689年スエズ運河開通に成功、次はパナマ運河開設が期待され、1879年パナマ運河会社が設立(代表者レセップス)。翌年から工事が開始。難関が続き資金難に陥る。会社は、その度に政府・議会に対し社債発行認可を工作、議員の過半数、官僚の全部、新聞界の半数以上を買収して成功。開通は絶望的であるが、国民は甘い幻想を抱かされ社債を買う。運河会社は各新聞社に多額の広告費を払い、新聞界は記事を書く。パナマ運河会社社債は完全に国家的詐欺となる。1888年(開通祝賀式予定の年)遂に行き詰まり、翌89年破産宣告。工事期間中の8年間の社債額13億3500万フラン。会社破産とともに中産階級50万人の生活が破綻。疑獄事件裁判で多数の国会議員が喚問・追及されるが、1903年裁判終了時点で、有罪政治家は工事期間中の元建設大臣1人。
3月21日
延期された民法の修正の綱領、討議・決定。ドイツのパンデクテン法学的体裁をとる根本的修正とする。伊藤首相、西園寺公望、箕作麟祥、横田國臣、穂積陳重、富井政章、梅謙次郎ら。
3月21日
一葉(21)のもとに『文学界』同人を代表して平田禿木(第一高等中学在学、21歳)が来訪。初めて同人と会う。後に馬場孤蝶・戸川秋骨・上田敏・島崎藤村・川上眉山を知る。31日発行『文学界』第3号に「雪の日」が掲載。
「午後「文学界」の平田といふ人訪ひ来たれり。国子の取次に出たるを呼びてとし寄りかと問へば 否 まだいと若き人也といふ。やましけれど逢ふ。」
一葉は、禿木が「文学界」同人で、創刊号に掲載されて愛読している「吉田兼好」の筆者であることも知らなかった。
はじめは戸惑いがあり、禿木も口数が少なかったが、話すうちにしだいに餞舌になり、一葉もまた熟が入り、文学あ学校のこと、またともに父を亡くしていることなど、心を許して語りあうようになる。
幸田露伴を評価する禿木が、一葉の「うもれ木」にその影響を読みとったことを語ると、一葉もまた「今の世の作家のうち幸田ぬしこそいと嬉しさ人なれ」と言い、露伴と面識があるかと聞いている。西行、兼好、芭蕉などについても語りあい、禿木は、同人の星野天知、北村透谷、巌本善治、島崎藤村などについても語る。
一葉にとって、このように幅広く自由に語り合ったことは初めてのこと。
早くに父を亡くし、母が家業に当たってはいるが、長男としての責任に悩み、学校生活も心に染まず、友もなく、この世を「憂き世」と嘆き、文学を友として生きる若い禿木に、一葉は自分との共通性を見出す。更に、禿木が「文学界」創刊号に「吉田兼好」を書いていた人と知り、尚、親しみと尊敬を覚える。
日暮になってようやくまたの訪問を約して、禿木は辞去。禿木はその夜、一葉に宛てて、
「願くはこの上とも深く交はらせ給ふて共に至(斯)道のために尽すをゆるし給へ。」
と手紙を書き、「文学界」第2号とともに一葉に送る。
この号には、透谷が山路愛山「頼嚢(ライノボル)を論ず」に反論した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」が掲載されている。
その後禿木は、「文学界」編集の仕事からも、しばしば一葉を訪ね寄稿を求め、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村などの同人を次々に一葉のところへ連れて行っている。一葉は、自分とほぼ同年輩の異性の作家たちから、それまでは未知の文学世界を見聞し、少なからぬ刺激を受けた。
禿木は後年、『文学界前後』の中で、一葉は薄倖の人ではあったが、自分の進むべき路を進んだという意味では実に幸福な人であると記し、「『文学界』同人の発見、並に誘引が女史のこの進路を少なからず助けたことは、今に我々の誇りとしているところである。女史は決して同人中の中心にはなっていなかつたが、よく我々の悩みを解し我々の歓喜に共鳴した云々」と述べている。
一葉と「文学界」、禿木をはじめとする同人たちとの交流、その文学との関連を語って貴重である。文学的に一葉を見出し、高く評価した最初の一人が禿木であった。
「雪の日」掲載を契機に、一葉は『文学界』同人たちと徐々に交流をもつようになった。『文学界』は同人雑誌であるため、一葉と古藤庵(後の島崎藤村)を除いては、原則として原稿料は支払われなかった。
平田禿木:
本名喜一、日本橋伊勢町の絵具染料問屋平田喜十郎の長男。この時は第一高等中学に在学。明治20年、日本橋教会で受洗、同時に星野天知、藤井米八郎(「文学界」発行名義人)も受洗、その機縁で、後に「文学界」同人、副編集人的立場となる。明治28年(1895)、数学が不得手なため退学して東京師範学校英語専修科に入学。この頃はペイターに私淑して芸術至上主義や審美主義の立場をとる一方、西行や兼好にも傾倒し、その隠者的な生き方に共鳴して親戚に当たる日暮里の妙隆寺に滞在して、そこから一高に通った時期もあった。下谷龍泉寺町の店に一葉を久しぶりに訪ねたのは、その頃である。三高教授の他に各私立大学で英文学を講ずる。
3月22日
子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載~5月24日)。和歌、俳諧、新体詩、小説を批判。
「しかし子規のこの「文界八つあたり」の中で、白眉は、これに続く「小説」の項だろう。
(略)
小説が不振である原因は、作家たちの競争心と名誉心の欠如による、と子規は見なす。「三四年前迄は猶ほ競争心等の為に著るしく進歩せしものなり。然るに今日の小説界は実に此競争心と名誉心とを失ひ尽したり」。
それでは、なぜ、作家たちが「競争心と名誉心とを失ひ尽し」てしまったのだろう。子規の推察する、その理由は、おおっと思わせる。・・・・・
とにかく、子規の主張を聞こう。
(前略)有名なる小説家が一団結を為して天下を横行するは万人の知る所なるべし。外面の形迹上(けいせきじよう)より言はゞ村山龍平なる一富豪が其金力を以てあるとあらゆる有名なる文学者(主として小説家)をおのが手下に網羅したるものにて大阪朝日東京朝日国会の三新聞に従事する小説家は自ら打つて一丸と為されたるの観あり之を名づけて小説家買占策と云ふ。
坪内逍遥と森鴎外と尾崎紅葉の三人を除いては皆、この「小説家買占策の餌食」であり(ということは、露伴だって緑雨だって『国会』新聞に関わっていたという点で同じ穴のむじななわけだ)、「此小説家買占策こそ実に競争心と名誉心とを減じ今日の小説界をして寂々蓼々起たず振はざるの極度に堕落せしめたるものにして憎しとも又憎き小説界の罪人なり」と子規は言葉を続ける。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
3月23日
子規、雑誌『俳諧』第1号刊行。1部6銭。
3月25日
自由党「党報」、「眼中もと君国の外他事なし」と誇り、「民党は海軍の敵に非ず、海軍の親友なり」と強調。
3月30日
この日付「よもぎふ日記」。
貧困の苦しさを記し、金銭を得る道を希求。このころから借金の記述が日記にくり返しあらわれる。母たきは、一葉が『都の花』『文学界』から注文を受けながら、注文に従って書くことをいさざよしとせず、慎重に構えて筆の進まないことを責める。
「糊口的文学」との訣別しようとの一葉の決意。
「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道もなし。母君は只せまりにせまりて我が著作の速かならんことをの給ひ、いでやいかに力を尽すとも世に買人なき時はいかがはせん。ここよりもかしこよりも只もとめにもとむるを、兎角引しろひて世に出さぬこそあやしけれ。誰もはじめより名文名作のあるべきならねば、よしいささか心に入らぬふし有りとも、そはしのばねばならずかし。・・・たとへ十年の後に高名の道ありとも、それまでの衣食なくてやは過す。」 (「よもぎふ日記」明26・3・30)
3月31日
漱石、子規に宛てて手紙。下宿か寄宿舎に入る覚悟を知らせる。
3月31日
『文学界』第3号に一葉「雪の日」掲載。
つづく
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