1892(明治25)年
11月9日
子規、家族を迎えるために東京を出発。
11月10日 子規、京都麹屋町姉小路上ルの柊屋に投宿して、松山を引払って上京する母八重と妹律を待つ。
11月11日 子規、高尾・栂尾の紅葉を眺め、虚子と合流して南禅寺・若王寺を散策し、京極の牛肉屋で夕食をとる。
11月13日 子規、神戸で太田柴洲・竹村錬卿とあい、夜まで話す。
11月14日 子規、母八重と妹律を神戸港に迎え、生田神社などを観光したあと、京都に移動。
翌15日、知恩院、高台寺、清水寺などを観て柊家に泊まる。
「午前三時睡中萱堂来。竹太二氏来、遊楠公生田等。竹氏又来。投京師柊屋。遊京極。
親にあふて一日秋を忘れけり」(『獺祭書屋日記』)
11月16日、朝、京都を発ち静岡へ。
11月17日、子規一家3人、新橋ステーションに帰着。途中、親戚の藤野宅に寄り、夕方に家に帰ったところ、荷物がまだ届いていなかったので、隣の陸羯南の家で食事や風呂の世話になる。
「正午入東都。訪麻布藤氏。薄暮帰寓。
母様に見よとて晴れしふじの雪」(『獺祭書屋日記』)
この旅行中、子規は母と妹を同道して京都、神戸を遊覧したり、中等の汽車を奮発したりして無謀な浪費をした。それを「身分不相応」と叱責した叔父大原恒徳に対して、
「贅沢と知りながらことさら贅沢したる汽車代遊覧費ハ、前申上候通り母様に対しての寸志にして、前途又花さかぬ此身の上を相考へ候て暗然たりしことも屡々に御座候」(11月22日付け手紙)
と書く。
この手紙に記された京都旅行の支払い明細は、
6円70銭 汽車代
3円90銭 人車代(大概は遊覧用に御座候)
8円 宿泊料(昼飯代とも)(少々の車代煙草代なども入る)
4円40銭 茶代
60銭 汽車中弁当代
1円 土産物代(京都にて買う)
1円50銭 書籍代(京都にて)
2円 交際費(京阪諸友と飲食などせし贅沢料に御座候)
3円30銭 神戸より根岸まで荷物運賃
2円20銭 新橋より麻布、麻布より根岸まで人車代
80銭 郵便電信料
3円 雑品購入費(竈、七輪、その他台所道具)
合計で、57円40銭(このほか少々は肴代野菜代くらい相残りおり候)、とある。
(この直後、子規が貰うことになる月俸は15円)
虚子と共に嵐山の紅葉を見るために京都を訪れてたとき(11月12日)のことを彼は、のちにこう書く。
「この日の興(きよう)筆には書きがたし。この時われは尤も前途多望に感じたりし時なり。われに取りては第一の勁敵(けいてき)なる学校の試験と縁を絶ちたりし時なり。ましてこの勝地に遊びこの友に逢ふ。喜ばざらんと欲するも能はず、これを仰ふればますます喜びは力を得て迸発(ほうはつ)せんとす。わが顔は喜びの顔なり、わが声は喜びの声なり、わが挙動は喜びの挙動なり、はては一呼一吸する空気の中に喜びの小児は両腋(りようわき)の羽を動かして無数に群れたるを見る。この時のわが喜び虚子ならでは知るまじ。この時の虚子が喜びもわれならでは知るものなし。目前の何が楽しきかと問はば七位が楽しきか知らず。前途に如何の望(のぞみ)かあると問はば自ら答ふる能はず。しかれども人間の最も楽しき時は何かは知らずただ楽しき時にあるなり。」(『松蘿玉液(しようらぎよくえき)』)
虚子が記すこの京都旅行(「後年子規居士は、自分はあの時ほど身分不相応の贅沢をしたことはない、といった。」)
「余は聖護院の化物屋敷という仇名のある家に下宿していた。その頃は吉田町にさえ下宿らしい下宿は少なかった。まして学校を少し離れた聖護院には下宿らしいものはほとんどなかった。この化物屋敷も土塀は崩れたまま、雨は洩るままといったような古い大家にごろごろと五、六人の学生が下宿していた。ある日、すぐ近処の聖護院の八ツ橋を買って食っているとそこへ突然余の名を指して来た客があった。それは子規居士であった。そこでどんな話をしたか忘れたが、とにかく八ツ橋を食いながら話した。この時子規居士はいよいよ文科大学の退学を決行して日本新聞入社ということに定まり家族引連れのため国へ帰るところであった。それから二人は連立って散歩に出た。この時の居士はかつて見た白木綿の兵児帯姿ではなく瀟洒たる洋服に美くしい靴を穿いていた。二人はまず南禅寺へ行って、それから何処かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と東山名物おたふく豆を食った。
その翌々日余は居士を柊屋に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた。美くしい一人の女中は柱に手を掛けてそれを見ながら何とかいっていた。その貴公子らしく見えたのは子規居士であった。
「何をしておいでるのぞ」と余は立ちどまって聞くと、
「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ」と言って居士はまだコツコツと叩いた。柱に凭れている女中は婉転たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやりとその光景を見ていた。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。
当時を回想する余の眼の前にはたちまち太秦あたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまでほとんど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。それは文学に対する前途の希望を語り合っているのであった。子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていたことはこの京都滞在の時ほど著しいことは前後になかったように思う。何にせよ多年の懸案であった学校生活を一擲して、いよいよ文学者生活に入ることになったのであるからその、一言一行に生き生きした打晴れた心持の現われているのも道理あることであった。
二人は楽しく三軒家で盃を挙げた。それから船に御馳走と酒とを積み込ませて大悲閣まで漕ぎ上ぼせた。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は嵐山の山影を浴びて前途の希望を語り合った。後年子規居士は、自分はあの時ほど身分不相応の贅沢をしたことはない、といった。(子規居士と余 4)
このとき、虚子は京都の第三高等中学校(のちの第三高等学校)に入って聖護院あたりに下宿してい。翌年には河東碧梧桐も同校に入学。しかし、第三高等学校は京都帝国大学への昇格を視野に入れ、本科・予科を廃止したため、在学生は離散する。そしてこの時、二人は仙台の第二高等学校に振り分けられてしまった。松山育ちの二人は、仙台の寒さに耐えかね、おまけに東北弁がさっぱりわからず、結局学業をやめてしまう。
11月11日
一葉、田邊花圃を訪問し、帰路、「都の花」に「うもれ木」が掲載することの報告を兼ねて神田三崎町の桃水と再会。
「・・・二時にも成けん。番町より車にて三崎町にいそぐ。北風いと強く身をさす様也。月日隔ててものぐるほしきまでおもひみだれたるを、君はさしもおぼさじかし。心にもあらぬやうなる別れのその折は、さまざまいひさわがれたる人ごとのつらさに、何ごとをおもひ分くるいとまもなかりしを、今さらにとりかへさまほしうおぼゆるぞかひなき。はじめよりにくからざりし人の、しかも情ぶかうおもひやりのなみ成らざりしなど、おもひ出るままに、何故にかく成けん。身はよしや、さは大かたのよにつまはじきされなんとも、朝夕なれ聞こえなましかば、中々にいけるよのかひなかるべきをなど、取あつむれば、人も我もよの中さへもいとにくしかし。・・・」
(自分の身はたとえ世間から仲間はずれにされたとしても、朝夕にあの人と馴れ親しむことがもし出来たとしたら、かえってこの世は生甲斐のあるようになったのではないかなどと、考え巡らすと、あの人も自分も世の中も大へん憎らしく思われてくることだ。)
「・・・嬉しなどはよのつね、ただ胸のみおどりぬ。といはん、角(カク)いはんなどおもひつづけしことは、何方にかげかくしけん。さらにさらにいはるべくもあらず。からうじて、月日いかがすぐし給けん。心には忘るる間もなきを、おもひよらずもの隔ててのみなんありし。御なやみの後はさしも御なごりなうとこそおもへりしに、此ほど御めしつかひより(ほの承れば)、そこはかとなくよわげになど承りしは誠にや。などほのかなるものがたりに景色心みれば、ただにこやかに打笑みて、こと少ななるしも、底に物ありげにていとくるし。・・・」
結局この日は、桃水が商売のためしばしば座を立つこともあって、一葉が「都の花」に作品が載ったことを報告し、桃水が〈女学雑誌〉から一葉に原稿依頼があったことを話したのみで、かつてのように長物語りもせず、心残りのまま別れてしまった。
11月12日
宮武外骨、3年の刑期を終えて石川島刑務所を出獄。
「明治二十五年十一月十二日、「二百人ほどの田迎人に擁せられて」と外骨は「自家性的犠牲史」で書いているけれど、木本至『評伝宮武外骨』によれば「数十人の友人」(それでもかなりの数だ)に出迎えられて、石川島の刑務所を出獄した。出迎え人の中にはあの落語家の初代快楽亭ブラックもいた。石川島の両岸の見物人の間からは「今日の放免囚はえらい人物らしいな」と声があがったという。
出獄した外骨は、ひとまず青山北町にあった兄宮武南海の家に身を寄せた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
「○宮武外骨氏の出獄 去る廿二年天皇陛下が宮城に於て行はせられたる帝国憲法発布式に模擬し頓智研法といふを発布したる為め不敬罪を以て重禁錮三年罰金百円監視一ヶ年に処せられたる頓智協会雑誌主筆宮武外骨氏は明十二日主刑満期に付出獄せらるゝ由。」(『読売新聞』明治25年11月11日)
11月17日
チャイコフスキー、バレエ「くるみ割り人形」、サンクト・ペテルブルク・マリンスキー劇場で初演。
つづく
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