瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅲ)
■一葉、桃水に師弟関係解消を申し出る
「一週間ほどして、一葉はようやく萩の舎のスキャンダルの火の手を一応鎮め、疲れきって家に帰ってきた。
(略)
それまで借りていた桃水の本など取りまとめ、六月二十二日、一葉は意を決してふたたび桃水を訪れた。
幸い今日にかぎり、河村の家族がいなくて、桃水はまだ蚊屋の中で寝ていた。一葉は久しぶりで、その横に座り、桃水の寝顔を見つめた。幸福だった日々のすべてが思い返されてくる。ふたりだけで共有した誰にも知られなかった時間のすべてが…‥。一葉が桃水のことで心をかき乱されるのは、いつでも人の口からだった。桃水自身はかつて一度も、一葉に冷たい言葉や態度を示したことがなかった。だからこそ、病気で気分の晴れない桃水の不機嫌にさえ、あれほど怯えたのではなかったか。
はじめて遜った日から桃水の一葉に示した優しさの数々が、今一葉の胸に退り、なぜこの人に別れを告げなければならないのかと心がかき乱されてくる。
「ゆり起さんもさすがにて、しばしためらふほどに、ひる近く成ぬ。ふと自覚して、「こは夏子どのか。浅ましき姿や御覧じけん。など起しては給はらざりしぞ」といひつゝ、あわだゞしく連出給ひぬ。火桶の左右に座をしめつゝ、ものがたりしめやかにす」
一葉の筆は、「にくさもにくし」と書いた同じ筆とは思えないし、絶交を宣言に来た女の態度とも見えない。
「情(じやう)にもろきは我質(わがたち)なればにや、是を限りに今よりは参りがたしと思ふに、何ごとゝなく悲しくさへ成ぬ」
というのが、一葉の本心であろう。行きがかり上、周囲の者すべてに桃水を悪者にしたでてきた後ろめたさもある。」
「桃水にうながされて、一葉はしおしおと話しだした。
(略)
桃水はあっさり笑いとばした。
(略)
「恩の義理のと、つまらないことを言わないがいい。自分はいつでも、あなたによかれとばかり尽してきたつもりだ。今でも、あなたが都合のいいようにされるのが一番うれしい。今からは、あまりここへ来ないほうがいいでしょう。かと言って、ぶっつり来ないのも、やはり人目に立つから、ほどほどに来てはどうですか」
とこまごま言い、結局、噂を消すには一葉が結婚するのが一番いい方法なのだと、意見を述べるのだった。」
「「我はじめより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床(ゆか)しなど思ひつること、かけてもなかりき」
という書き出しで、一葉が桃水に関する長文の感想を日記に書きつけたのは、それより四十日ほど後、五月二十九日の日記の末であった。一葉が正常な頭と神経を持っていたなら、よくもこんなそらぞらしいことが言えると思うことばである」
■後悔する一葉
「この感想文の中では、一葉は必死になって、桃水は自分に野心を持ち、二人きりの時にはよくそれをほのめかしたが、自分は気づかぬふりをしてあしらってきたというように書いている。これまでの日記に、恋しゆかしとくりかえし書き、二人きりの時間に、どれほど全身全霊で桃水の愛の告白を待ち望んだかしれないのを、日記に書いてきたのは、まるで自分ではなかったような感想の書き出しである。
それでいて、感想がつづくにつれ、桃水と共有した時間のすべてを、なつかしく、恋しく追憶し、
「七月の十二日に別れてより此かた、一日も思ひ出さぬことなく、忘るゝひま一時も非ざりし。今はた思へば、是ぞ人生にかならず一度(ひとた)びは来るべき通り魔といふものゝ類ひ成けん」
と矛盾した心の乱れを、終りに書きつけている。
後になって桃水は、野々宮きく子の口から、自分が一葉を妻と言いふらしたという噂を一葉が信じたという事件の真相を知り、怒りの手紙を一葉に出している。
上流の女たちの集まりとはいえ、しょせん萩の舎に集まる女たちも噂好きで嫉妬深く、長屋のおかみさん的井戸端会議の好きな女たちにすぎなかったのだ。
一葉はやがて、自分が彼女たちの深い計画性もない噂や好奇心や岡焼きの犠牲になって、おとしいれられたことに気づくが、後の祭であった。」
■文学者としては必然のめぐり逢いであり別離であった
「一葉は自分から需めたことながら、桃水との絶交を後悔し心から桃水の俤を払うことは死ぬ日まで出来なかったようである。
ただし、運命の不思議さは、一葉にとって、桃水にめぐり逢ったことも、別れたことも、一葉が文学者として成功するためには、必然の出逢いであり、別離であったということだ。桃水の文学的指導は、一葉の天稟(てんぴん)の偉大さの前には卑小すぎ、一葉の才能をのはすためには役立たなかった。むしろ、その点では一葉の無知が、師を誤って選んだということになる。ただし、桃水にめぐり逢ったため、一葉は、十九歳から二十歳の間に、桃水を恋するごとによって、人間的にも女としても急速に成長した。恋の本質は快楽より苦悩だが、一葉はこの恋によって、三分の快楽と七分の苦悩を味わった。長い年月の恋が必ずしも深く、短い恋が浅いとば限らない。一葉のわずか二十四年の生涯が凡人の九十歳にも匹敵するように、一葉の真剣な恋は、わずか一年の間に十年の恋の深さを味わいつくした。
しかもその恋は、死の床までひそかに一葉の胸底に生きつづげでいた。
一葉の早計からにせよ、この恋に決別したことによって、一葉は花圃の援助を受け、この後、『文学界』の若い新進作家たちと近づくことが出来、自分の才能に適した文学的刺激を受け、突然、火山が噴出するような勢いで、名作を矢つぎ早に書きあげていく。
もし、桃水との恋かつづいていたら、一葉の文学的開眼は永久に訪れなかっただろう。」
「一葉は龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた頃、突然、突拍子もない不可解な行動をはじめた。その頃、痛切に桃水への想いをかきたでていながら、現実には久佐賀義孝というどう見てもインチキ占い師、天啓顕真術という看板をかかげた男の許に単身乗りこみ、相場の元手を貸してほしいと申しこんでいる。しかも久佐賀が、妾になることと引きかえに金を出そうと切りだすと、日記では、久佐賀の醜悪さを罵倒しながら、現実には久佐賀と決して縁を切らず、たびたび金を引きだしている。かんじんの親交の深まった時点の日記が例によって消されているので、真実は、桃水との関係同様、見事に騎晦されているが、少なくとも久佐賀から、何度か金を引きだしたことは充分うかがわれる。桃水からも毎月十五円ずつ援助を受けていたという桃水側遺族の証言も残っている。肉体的関係なく男が金を出すということはどういうことか。久佐賀の場合も、毎月の妾の手当十五円という金額が打ち出されている。
日記で見るかぎり、一葉は男の誰にも身をまかせてはいない、清い、潔白の処女である。
和田氏が奇跡の十四カ月と呼んだ晩年の突然の文学的開眼の秘密は、果してどこにあるのか。「にごりえ」のむせるようなお力の体臭はどこからくるのか。一葉の名作モティ-フに必ず顔を見せる三角関係の人の構図はどこからくるのか。」
「一葉の最後の未完の作品『裏紫』は姦通がテーマである。女だけに苛酷な貞操が強いられ、男は自由に女をあされるという社会の道徳に、真向から挑戦しょうという意図であった。
男が同時に女を複数で愛せるように、女もまたそれが可能な生理だということを一葉は言いたかったのではあるまいか。
桃水も久佐賀も、一葉の官能の秘密に無縁で過ぎだとしたら、一葉にそれを教えたのは、現身(うつしみ)ではない金の雨の美神か、角をかくした黒衣のメフィストフェレスであったのだろうか。
「まこと入立ちぬる恋の奥に何物かあるべき。もしありといはゞ、みぐるしく、にくゝ、うく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしく、取つめていはんには、厭(いと)はしきものよりほかあらんとも覚えず。あはれ其厭ふ恋こそ恋の奥戯けれ」
というのは一葉の死の前の恋愛観の告白である。
龍泉寺町から、終焉の地丸山福山町に移った頃から、一葉の家は『文学界』の文士たちのサロンのようになっていた。平田禿木、馬場孤喋、川上眉山、島崎藤村、星野天知、幸田露伴、斎藤緑雨、横山源之助等が入れ替り立ち替り訪れているが、彼等が口を揃えて言う一葉の印象は、洒脱で皮肉でウィットがあり、お茶屋の女将のようにとりなしがさばけていたということである。
はじめて桃水を訪れた日の一葉の野暮ったい小娘の印象と比較したら、わずか、三年後のこの急激な変身ぶりはどこからきたのであろうか。自分の作品が思いの外世評に高く認められたということだけで、そんなに人間が変ることはあり得ないだろう。
二十歳から二十四歳までの生活苦が、-葉から角をとり、人とのつきあいを円滑にしたのだろうか。人世の酸いも甘いもかみわけたような老成した微笑が、若い文学青年たちに女王のようにかしずかれる一葉の面上に浮びはじめた頃、すでに死の影が、一葉の若い肉体をすっぽりと包みはじめていた。
病名は肺結核であった。
一葉は自分の文名をさほど有頂天に喜んだふうには見えない。緑雨が評したように、その小説が〝涙の後の冷笑〞なら、晩年の一葉の生活態度そのものも涙の後の冷笑で臨んでいたような気がする。
明治二十九年の七月半ばから病床につき、森鴎外の紹介で、秋頃、青山胤通に往診された時はすでに絶望状態であった。桃水はこの頃も案じて、見舞っているらしく、くにの病状を報じた桃水あての手紙の下書が、十月の日付で残されている。
死亡は十一月二十三日朝であった。五時とも十時とも説がある。」
「死の近づいた頃、『文学界』の同人たちが見舞いに来でも、熱の夢うつつの中で、
「死ねば蝶になってあなた方の袖にたわむれよう」
とか、
「やがて石になるだろう」
とか平然と言っている。愛欲の悩みも、生活苦のつらさも、理想と現実のギャップの絶望ものりこえた涯(はて)に、あまりにも哀切なおだやかな死と、無窮の文学の栄光が待っていたのが、この薄倖の天才詩人の生涯と運命であった。多くの謎を道づれに、一葉は名作を遺言にかえて潔く逝った。
あえて言う。一葉は小説家である前に天性の詩人であり、詩人である前に、ひとりのなまなましい若い女であった。
「しばし文机に頼づえつきておもへば、誠にわれは女成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。…・我れは女なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか」
一葉の死の前の絶叫が、今もどこかから聞えてくる。」
*「われは女成けるものを」;1896(明治29)年2月22日の日記
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