1892(明治25)年
3月
韓国、日本人漁民144人、城山浦に上陸、蛮行。
5月、日本漁船数十隻、禾北浦と頭毛里に上陸、蛮行。
7月、朝鮮政府、日本漁民の済州島民殺害に関する賠償金を要求。日本側は回答を引延ばし支払わず。漁民の対日感情悪化。
3月
森鴎外「早稲田文学の没却理想」(「志がらみ草紙」)
3月
半井桃水、殆ど一葉の為に同人誌「武蔵野」を創刊。1~3号に「闇桜」「たま襷」「五月雨」を連載、作家としての第一歩を踏み出す。「武蔵野」は3号で廃刊。
3月
北村透谷、責任者となり日本平和会機関誌「平和」創刊。~翌年5月(12号)。透谷らは1890年から「懸賞問題答案平和雑誌」を翻訳出版。「戦争は富貴なる安逸者の争いを鎮定するために、貧賤なる労役者を用い、その職業を失わしめるものなり」。
3月1日
芥川龍之介、誕生(S2/7/24没)。東京市入船町(現中央区明石町)。牛乳販売業新原敏三(43)・フク(33)の長男。
3月1日
神奈川県民党代議士歓迎会、横浜旧公道倶楽部で開催。石阪昌孝も出席。
3月3日
北多摩郡宮沢村の金貸し伊藤治兵衛殺害。選挙資金返済を迫られた自由派壮士の犯行として森久保作蔵や秋山文太郎らが拘引、結局無罪。
3月6日
司法官弄花事件の発端。大審院判事児玉淳一郎、児島惟謙以下数人の賭博につき元検事総長司法次官三好退蔵に告げる。以降、東京控訴院長南部甕男・東京控訴院検事長高木秀臣・大審院検事今井艮一にも告げる。4月6日、児玉、巡回から帰京の検事総長松岡康毅にも告げる。
3月9日
稲城村百村の妙見寺で政談演説会。石阪ら代議士3人、客員として出席。演説会は途中中止解散。
3月9日
原敬(36)、陸奥大臣とともに退官。3月31日朝鮮弁理公使・農商務省局長を断る。
3月11日
品川弥二郎内相、選挙干渉に引責辞任。選挙干渉に対して農商務相陸奥宗光・逓相後藤象二郎が関係官吏処分を主張、強硬派の品川内相・樺山海相・高島陸相と対立。結局、陸奥(14日)・品川(11日)が辞職、河野敏鎌・副島種臣が入閣。
3月11日
萩の舎の梅見の催し。前日の日記で、一葉(20)は雨で中止になることを願う。
「友といヘど心に隔てある高等婦人の陪従して、をかしからぬことに笑ひおもしろからねど喜ばねばならぬこそ我が常に屑(イサギヨ)しとせざる所なるものを、植半八百松の塩梅も我が為には何のものかは。母妹を弊屋に残して一片の魚肉にも猶あかせ奉らぬものを、亀井戸の梅林香を分けて橋本に一ばいの鯉こく何うまかるべき。人の愉快とする所は、我が暗涙をのむの所なり。天ふれかし心あらば、と打歎(ウシナゲ)かれぬ」 (「につ記」明25・3・10)
3月12日
南多摩郡鶴川村大蔵の医師大須賀明が殺害。選挙で自由派を裏切ったとされる大須賀を制裁しようとして押し掛け、殺人に至る。村野常右衛門が主催する鶴川村野津田の凌霜館メンバーによって引き起こされる。
3月13日
北多摩郡千歳村・砧駒井村の有志、石阪昌孝らの代議士を招いて政談演説会開催(於千歳村)。吏党壮士50名あまりが妨害。演説会は中止。
3月14日
石阪昌孝ら自由党代議士および同党知名の士数十名、小石川柳町の大井憲太郎邸で会合、関東会の今後につき相談。
3月18日
桃水が樋口家を訪問。
平河町から本郷区西片町10番地(現、文京区西片2丁目)に転居(菊坂の一葉の家からは、本郷台を北へ登ると、わずかな距離で、一葉は「はい渡るほどなるがいと嬉し」と喜ぶ)したことの挨拶と、発行が遅れている「武蔵野」が20日に出るという話をするための訪問。初対面の母は、美しい人だ、亡くなった泉太郎によく似ている、悪い人ではあるまい、好感をもが、桃水が近くに来たことで「人の目つまにもかゝれば、正なき名やたゝん」と、一葉と桃水の仲が噂になることをおそれる。妹くに子は、そこが曲者だ、口元の可愛らしいのが策略家の奥の手じゃないか、心を許してはいけない人だ、と警戒する。
3月20日
チャイコフスキー、組曲「くるみ割り人形」(作品71a)初演、大成功。
12月19日のバレエ初演は不評。
3月21日
石阪昌孝・山田東次、副島種臣内相に管下での演説会につき申し入れ。
3月21日
一葉(20)、桃水を訪問。
20日に「武蔵野」が発行されず、一葉は、自分の小説が世に容れられないものならば、遠慮なく言って欲しい、と桃水に言う。桃水は、なにを言うのか、私は一旦引き受けた上は必ず守る、「武蔵野」を2、3回も続ければ、君の名も必ず世に知られる、そうなれば朝日になり何なり、私に周旋の方法がある、と語る。
3月22日
一葉(20)、東京図書館で田中みの子と会い、中島歌子のことなどを語る。
当時、一葉は田辺龍子や田中みの子、伊東夏子らと萩の舎の改革をはかろうとしていたらしい。
3月23日
一葉(20)の「闇桜」が『武蔵野』第1編に掲載。初めて一葉の名が活字になって雑誌に掲載される。
園田良之助(22)と中村千代(16)は隣りどうしの仲の好い幼馴染であったが、千代は良之助を愛するようになる。良之助は千代の思いに気付かず、千代は愛を告げられぬ悩みから病んでしまう。千代は拒食症に陥り日毎に衰弱し、良之助が見舞に来た日に息を引き取る。良之助はその時、初めて千代の思いを知って哀しむ。千代の家から帰ろうとすると、闇の中に家桜の花が散っている。
3月24日
この日の一葉(20)の日記には、前日(23日)、森昭治から援助を断ってきたと書かれている。一家は、1月から則義が東京府の役人時代の上役であった森から、月8円、6ヶ月間の生活費の援助の約束をとりつけていた。森に援助を断られた一葉は、24日、『武蔵野』のことで桃水を訪ねた際、借金の申し出をしたところ、桃水は快諾し、月末までには何とかしようと言ってくれる。
この日、一葉は桃水を訪ねる前に、『武蔵野』の表紙の文字を書くことと、桃水に頼まれた長歌を添削して貰う為に中島歌子を訪ねる。
一葉は、自信のある和文調は新聞小説に向かないと言われ、自分の文体を如何にするかの悩みがあり、言文一致、和風、新聞調などどの文体がいいのかを歌子に尋ねる。
歌子は、一葉を歓迎して、文章についての意見を述べる。
一定の文則、文体は必要。しかし、「今のよの新聞屋文といふものこそ、我がとらざる所なれ」と、桃水を意識してか、一葉にブレーキをかける。すべて文であれ、歌であれ、気骨というものが欲しい。女であるからは、なよやかな所があった方がいい、と云う。
そして、歌子が若い頃、尊王摸夷の志のもとに江戸に上った夫を恋い慕った「常陸帯」という手記と一葉に与えるための着物を取り出してくる。
一葉は歌子の手記を読み、そこにこめられた心の勇ましさ、雄々しさに感動を受ける。
歌子は、「されば文まれ歌まれ、よしおのれ其ものに向ひおらずとも、真といふこゝろに成てつくり出なば、人をも世をもうごかすにたるべきものぞ、そこの小説をものせんとするも、かかる心ばへにてぞあれよかし」(3月24日)と語る。
桃水の小説指導は、戯作の流れをくむ新聞小説の特徴である、「趣向」という変化に富んだストーリーづくりの手練手管に重点を置くものであるが、それに対して、歌子の主張は、心の真実を表わす文章の本質論であり、一葉はここに心を動かされる。
3月26日
アメリカ、詩人ホイットマン(70)、没
3月28日
片岡健吉・林有造、片岡直温・安岡雄吉の衆議院議員当選無効を大阪控訴院に提訴(原告敗訴のため大審院に上訴。明治26年4月6日、名古屋控訴院、高知第2区の片岡直温・安岡雄吉の当選無効、片岡健吉・林有造の当選を宣告。同年6月6日大審院、片岡直温・安岡雄吉の上告棄却)
3月30日
野坂参三、誕生。
3月31日
心中をテーマとする一葉の「別れ霜」が、浅香のぬま子の筆名で『改進新聞』に掲載(3月31日~4月18日(15回))。桃水の紹介によるもので、初めての新聞連載小説。
相思相愛の許嫁の男女が、家の財産のっとり問題で引き裂かれたものの、心中をはかるという物語。江戸浄瑠璃の心中ものを思わせ、文体も古風で新味のない作品。"
3月末
子規、試験が近づいても勉強に身が入らない。
「試験があると前二日位に準備にかかるのでその時は机の近辺にある俳書でも何でも尽く片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると平生乱雑の上にも乱雑を重ねて居た机辺が清潔になつて居るで、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中に十七字が一句出来た。(中略)また一句。余り面白さに試験なんどの尊は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ケ月といふiので何々十二ケ月といふ事はこれから流行り出したのである。」(『墨汁一滴』)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿