瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅱ)
■一葉の桃水に対する疑惑、耳打ちされる「醜聞」
「一葉は二十三日に泊りに来た野々宮きく子から、思いがけない話を聞かされた。
「野々宮君と種々ものがたる。半井うしの性情人物など間に俄に交際をさへ断度(たちたく)なりぬ。さるものから、今はた病ひにくるしみ給ふ折からといひ、いづくんぞ斯(かか)ることいひもて行かるべき。快方を待てと心に思ふ」
と日記に書かずにいられないほどのショックを受けている。」
*野々宮きく子は、これまでも度々一葉に対して桃水の悪評を吹き込む人物。しかし、一葉は、桃水に関する貴重な情報源として扱っている。
「(6月7日、一葉が桃水を訪問すると、桃水が言うには)「実は外でもないが、あなたの小説のことだけれど、今まで見てきたが、あなたの資質は、とうてい絵入りの大衆小説には向いていない。いっそ、思い切って本格的に勉強したほうがいいと思うので、つてを需めて尾崎紅葉に引き合せようと思うのです。彼の手で『読売』にでも連載ができると将来もたしかだし…・。もちろん、月々の定収入の問題もふくめて、よく頼むようにはからっています。何しろ、今の自分は、こんな情けない日陰の身分なので、万事、畑島に頼んで、紅葉に通じてもらっています。一度、紅葉に遇ってみませんか。いざという時になって、本人のあなたにいやだなどと言われたら面目がつぶれるので、相談するのだが」
という話だった。一葉は、今をときめく文壇の大御所の紅葉に紹介されるというので、一も二もなく、承諾した。
考えようによっては桃水が、一葉のたびたびの無心に面倒になって、紅葉に肩代りさせようと計らったとも勘ぐられるが、一葉の文学的資質を、自分よりはるかに本質的なものとみなしての大乗的な見地に立っての計らいであったのかもしれない。」
■伊東夏子、師匠の中嶋歌子から桃水と手を切るように忠告される一葉
「(6月12日)一葉は伊東夏子に、話があると別室に連れ込まれた。
そこでいきなり、声をひそめて、
「君は世の義理や重き、家の名や惜しき、いづれぞ」
というような大げさな切り込み方で、桃水との交際を断ったほうがいいと忠告された。
(略)
青天の霹靂という感じで、一葉は夏子の話を聞いた。気をつけてみると、舎中の者ほとんどが、この噂で持ちきりのように見える。」
「二日後、一発は、もう寝に立とうとした歌子を呼びとめて、相談したいことがあると言った。歌子はその場で聞いてくれた。
一葉が桃水とのつきあいは、ひとえに家のため家族のために、小説を習う目的で、男女の愛などはぬきなのに、今、世間でとやかくの批判を受けているらしい、どうしたらいいかというと、歌子は不審そうな顔をして、
「それじゃ、あなたはまだ桃水と結婚の約束などしていないのですか」
と言う。一葉が躍起になって、どうしてそんなことがあろうかと言うと、歌子は言った。
「実は桃水があなたのことを、世間で自分の妻だと言いふらしているという話を、私も聞いています。もし、縁があって、あなたもそれを許しているなら、他人のいさめなど聞くことはないが、全くそんなことがないなら、そういうことを軽々しくいう男とは縁を切ったほうがいいだろうね」」
「一葉は歌子の忠告を聞いた直後の感想を、
「我一度(ひとたび)はあきれもしつ、一度は驚きもしつ、ひらすら彼(か)の人にくゝつらく、哀(あはれ)、潔白の身に無き名おほせて世にしたり顔するなん、にくしともにくし。成らばうたがひを受けしこゝらの人の見る目の前にて、其(その)しゝむらをさき肝(きも)を尽くして、さて我心の清らけさをあらはし度し、とまで我は思へり」
と日記に書きつけている。あまりにも大仰で、かえってうさん臭く感じられる怒りようである。あまりに突然の激しい怒り方が大げさで、読まされる方が驚いてしまう。」
翌15日、一葉は桃水を訪ねるが、師弟関係を打ち切ることを切り出せずに帰ってく
「翌日から一葉は、萩の舎に来る誰彼に向かって、自分の潔白を言いたて、桃水とは練を切ったと、極力、宣伝した。
田辺龍子は、それなら文芸雑誌「都の花」に紹介しようという。
翌日は田中みの子にも事の次第を話し、桃水と別れたと言ったが、色恋の道にくわしいみの子は、・・・一向に一葉の弁明を信用していない様子だった。」
つづく
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