2025年8月4日月曜日

大杉栄とその時代年表(576) 1905(明治38)年4月3日~10日 「・・・看よ、拒むべからざるの事実は是れ也、戦死の犠牲は是れ皆な貧民、労働者と其の子弟也、軍費の最後の負担者は是れ皆な貧民と労働者と也、--然れ共戦勝の鴻益に就て彼等は直接に何物の分配を享受せんと欲する乎、吾人は之を各国の歴史と近く之を日清戦役の実験とに徴して「生活難」の外殆ど何物も是れあらざるべきを悲痛せずんばあらざる也」(1905年4月9日付け『直言』)

 

増税の重荷を背負った国民と戦利を得た者たち(『東京パック』より)

大杉栄とその時代年表(575) 1905(明治38)年4月1日~2日 「東京朝日」「大阪朝日」の戦争継続論。「東京朝日」社説「昨今の講和沙汰」、アメリカ大統領の調停説をウソと断定、ロシアの弱り目に乗じてさらに躍進せよ、と主張。 「大阪朝日」社説「激励の機会」、ロシアが旅順・奉天の大敗にもこりないなら、ハルビン・黒竜江・沿海州までも進撃するのみ、と主張。 より続く

1905(明治38)年

4月3日

清国、蘇報事件でつかまっていた鄒容、上海で獄死。

4月3日

小田頼造(かつて山口義三と共に東海~山陽道を伝道行商した)、単身で改めて門司より九州一円社会主義伝道行商。94日間に社会主義書類1,266冊販売。

4月3日

社会主義大演説会(YMCA)。

石川三四郎が前日の上野公園における警官隊の暴状を報告。抗議する山口孤剣を、危険な狂人と称して監禁しようとした事実を糾弾するや否や中止解散を命ぜられる。600人超の聴衆は官憲横暴を叫び、巡査と衝突し、騒然たる乱闘となる。

4月3日

(漱石)

「四月三日(月)、高浜虚子来て、四月末に文章会をしたいとのことで、引き受ける。」(荒正人、前掲書)

4月4日

清国の長沙に領事館設置。

4月4日

早稲田大学野球部選手団、米に向けて出発。野球チーム海外遠征の初め。7勝19敗。安部磯雄が率いる。この日、安部は平民社に堺利彦を訪問。

4月4日

パキスタンのラホールで大地震。1万人以上が死亡。

4月5日

韓国、安昌浩らが共立協会を結成。民族独立運動開始。

4月5日

荒畑寒村、東北地方伝道行商出発

平民社発。この日市川泊。千葉泊。8日東金泊。12日飯岡伯。18日成田(1週間で21冊販売)。20日佐倉。25日牛久(小川芋銭宅)。この日より尾行巡査。この1週間で76冊。26日北相馬郡。28日根本村。5月1日江戸崎(1週間で59冊)3日土浦。4日石岡。7日西郷地村。転倒し車破損。8日水戸。この週、警察が先回りして干渉、販売29冊。水戸で4日滞在して36冊。13日、車の破損・警察の干渉により、水戸より一旦帰京。39日間、278冊販売。

4月5日

トルストイ、内田魯庵訳『復活』(新聞『日本』~12月22日)。

4月5日

(漱石)

「四月五日(水)以後十日(月)以前(推定)、高浜虚子(麹町区富士見町四丁目八番地、現・千代田区富士見町二丁目)を訪れる。庭の桜は満開である。二階の座敷で、酒を飲み、上機嫌になる。

高浜虚子、義太夫を唄う。

高浜虚子は野村伝四の『満一日』を戻す。」(荒正人、前掲書)

4月5日

ロシア第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)、マラッカ海峡進入開始

4月7日

小学校教科書用図書翻刻発行規則改正告示。

4月7日

(漱石)

「四月七日(金)、東京帝国大学文科大学英文学科三年生の学生数名乗る。(推定)大壕保治宛絵薬誌に、猫の絵葉書ばなかなかうまいが、楠緒夫人の代作だろうと書く。」(荒正人、前掲書)

4月7日

ロシア第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)、シンガポール沖通過

4月7日

ネボガトフ少将指揮ロシア第3艦隊、紅海最南端ジプチ港出港

4月8日

閣議、「韓国保護権確立の件」決定。10日、天皇裁可。

外交権の完全な奪取→国際法上の独立否定。「和戦両略」で有利な終戦をはかるとの方針決定。

4月8日

海軍軍令部にバルチック艦隊の情報届く。

在英の鏑木大佐、シンガポールの森大佐・田中郁吉領事、香港の野間政一領事より。

艦隊はペナン近くで発見されマラッカ海峡を南下中との情報

4月8日

参謀本部で陸海軍統帥部首脳会議。陸軍:山縣参謀総長・長岡次長。海軍:伊東祐亨軍令部長・伊集院次長。海軍側は4月末の樺太作戦に反対。「8月以降」と主張。

4月8日

「東京経済雑誌」、「下級者」が兵役・間接税に苦しむ以上、「政治上に於て権利を拡張するの要求は必然の数なり」と、公民権所有者までの選挙権拡張を主張。

4月9日

この日付「直言」。戦費負担は「貧民と労働者」。


「・・・看よ、拒むべからざるの事実は是れ也、戦死の犠牲は是れ皆な貧民、労働者と其の子弟也、軍費の最後の負担者は是れ皆な貧民と労働者と也、--然れ共戦勝の鴻益に就て彼等は直接に何物の分配を享受せんと欲する乎、吾人は之を各国の歴史と近く之を日清戦役の実験とに徴して「生活難」の外殆ど何物も是れあらざるべきを悲痛せずんばあらざる也」。

4月9日

(漱石)

「四月九日(日)、坂本四方太訪ねて来たので、共に上野を散歩する。留守に大谷正信(繞石)来る。

四月十日(月)、大谷正信(繞石)宛手紙に、副島松一(明治三十六年七月卒)・堀川三四郎(明治三十九年七月選科卒)・日野健四郎(明治三十六年七月卒)の三人のうち、前二者、他の学校に勤めていたが、現在は失業中であること、最後の者は長野中学校にいるが、郷里の香川県に近い所に転任したがっているから、奔走して欲しいと伝える。

四月上旬(日不詳)、泥棒に入られる。交番に届ける。一週間ほどすると日本堤警察署(日本橋区久松町)、つかまえた泥棒を連れて来る。翌早朝、何時迄と時間を指定して日本堤警察署に出頭しろとのことで出掛ける。

四月十二日(水)前後に、『琴のそら音』執筆する。

四月十三日(木)、森卷吉宛手紙に、「僕の號は蒙求にもある極めて俗な出處でいやになつ〔て〕るが仕方がないから用いて居る。僕も君の様に泥棒に這入られた綿入がなくて袷で少々寒いです。」と書く。」(荒正人、前掲書)


4月10日

仏外相、本野公使に日本が領土及び償金を要求しなければ、露は講和を希望と言明。

4月10日

フィリピンのホロ島でバラの反乱(~11月20日)。


つづく

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