1906(明治39)年
6月22日
アメリカ連邦議会、ロシアにおけるユダヤ人迫害を非難。
6月23日
幸徳秋水、岡繁樹と共に帰国(前年11月14日~)。
岡繁樹:
「万朝報」記者、主筆松井柏軒を殴って解雇。アメリカに渡りサンフランシスコ平民社設立。
船中で幸徳に会う。幸徳は、岡に対して、日本に革命を起すためには天皇を倒すことが必要である、その準備として帰国の上は貴族院の守衛を志願せよ、と言った。また、「岡君、後世この香港丸が歴史に残る」と昂然とした調子で言った。
4月18日、滞在していたサンフランシスコが大地震に襲われ、秋水はオークランドに避難していたが、在米日本人同志を結集した社会革命党の結成(6月1日)を置き土産に予定を切り上げて6月5日に日本へ向かった。
アメリカ到着後の秋水は、日本を代表する社会主義者として大歓迎を受け、各地で講演をし、無政府主義者たちと交流した。
無神論者のアルバート・ジョンソンやフリッチ夫人(ロシアのエスニル系の亡命者)と交わり、アナルコ・サンジカリズムの傾向の強かったI・W・W(世界産業労働組合)の会合に出席して、アナルコ・サンジカリスト(無政府王義的労働組合主義者)としての性格を強める。
またフリッチ夫人は、秋水に「普通選挙の無用」や「治者暗殺」についてさかんに持論を述べたという。
アメリカでは演説を中止されることもなく、その解放感から、秋水は天皇制を批判するような言葉も使うようになっていた。だが、2人の”スパイ”がつねに監視していたことを、彼はまったく知らなかった。
在米中に起こった大地震で、秋水によれば「無政府的共産制」の状態が現出した。彼の「思想の変化」に最も大きく影響したのはこの大震災だろう、と荒畑寒村は述べている(『続 平民社時代』)。
秋水の劇的な「思想の変化」は同志たちを動揺させ、社会主義運動をさらに分裂させることになる。
横浜に着いた幸徳秋水は、一時麹町元園町の堺利彦の家に落ちついた。幸徳は堺や西川光二郎、大杉栄、荒畑勝三など若い連中の前に坐って、自分の派手を靴下を見せ、「ハイにしてカラなるものだろう」などと冗談を言った。
6月23日
(漱石)
「六月二十三日(土)、野村伝四宛葉書で、「正は勝たぎるべからす、邪は斃れざるべからす。犬は殺さゞるべからず。豚は屠らざるべからず、猪千才は頓首せしめざる可からず。文は作らざるべからす。書は讀まざるべからす。月給は賞はざるべからす。御馳走は食はざるべからず。試験はしらべざる可からず。人世多事」と書く。
六月二十五日 (月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで 「十八世紀英文学」を講義する。
六月二十六日(火)、外出中に森田草平来て、翻訳の世話した礼としてか、鏡に十円届ける。(栗原元吉も一緒だったかもしれぬ)」(荒正人、前掲書)
6月25日
幸徳秋水、片山潜(1月に帰国)の家で同志たちと茶話会。片山との思想上の立場の違いを融和させることはできなかった。
6月26日
韓国における裁判事務に関する法律、公布。理事庁が始審を、統監府法務院が終審として上訴を管理。
6月26日
日米直通海底有線電話が開通。
6月28日
幸徳秋水、日本社会党の帰国歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」演説。神田区錦町(現・千代田区神田錦町)の錦輝館。総同盟罷工による直接行動論。ドイツ社会民主党の議会主義、ロシアの革命運動の例により、ゼネストが将来の革命の武器となる。
錦輝館は1902年に日本で初めてメリエスの『月世界探検』を上映した活動写真館。秋水帰国の2年後の1908年6月22日には、ここで行われた山口孤剣の出獄歓迎会がきっかけで赤旗事件が起こる。
幸徳はまず述べていう。過去一年有余の入獄と外遊とは、自分の主義思想になんの変化をあたえることなく、自分はいぜんとして社会主義者である。しかし、その主義理想に変化はないけれども、これを実現する手段方法にはおのずから変化がないとはいえないのであって、自分の見聞したところでは、今や欧米の社会主義運動の方針はまさに一大変化をきたそうとしている。したがって日本の社会党もまたこの新しい潮流をみてとらなければならないのである。かような前提にたって幸徳は次のように主張した。
「一八四八年にマルクス、エンゲルスの二人が草した『共産党宣言』の中には、共産党は世界いたるところで政治的および社会的現状に反抗する革命運動を援助するといって、その実行のためには武力を用いるももとより敢て辞するところではなかった。しかも社会党の運動は多少の盛衰消長をまぬがれなかったとはいっても、一八七一年、普仏戦争の終局にいたるまで二十年問つねに革命党として前進し、革命党として奮戦していた。
しかるに理想的、急進的、民主的なフランスの敗北と、保守専制的、武断的なプロシアの大勝とは革命運動にとって一大打撃であった。一方においてパリ・コムミュンが粉砕され、フランス流の革命運動が一時まったくへい息して、武力革命が到底不可能だと思わせると同時に、他面ではビスマルクが戦勝の余威を駆って鋭意革命運動を鎮圧し、かつ普通選挙制を採用して民間不平の安全弁とするにおよんで、ドイツ流の社会党が銃器爆弾を棄てて、もっぱら議員選挙に向かって全力を注ぐようになったのは自然の勢いといわなければならない。かれらは社会民主党は議会に多数を制し、平和的、立憲的、合法的な手段をもってその志をおこなわなければならない、といったのである。したがってパーリヤメンタリズム - すなわち議会政策が万国社会党の運動方針として採用せられるいたって、毎回の万国大会における革命的決議案は常に少数を以て敗れ、急進派は無政府党に走るというような状態になった。
わが日本の社会党も従来は議会政策をもって主たる運動方針とし、普通選挙の獲得を以て第一着手の事業としていたのであるが、自分は獄中における読書と研究との結果、密かにいわゆる議会政策の効果に疑いをはさむにいたり、その後アメリカに遊ぶにおよんでますますその疑いを深くするようになった。
三百五十万の投票を有し、九十人の議員を有するドイツ社会党が果して何をなしたか。ドイツは依然として武断専制の国家であり、依然として堕落罪悪の社会であって、その投票なり、その代議士なるもの、はなはだ頼むにたりないではないか。労働者の利益は労働者自身で得なければならない。労働者の革命は労働者みずからおこなわなければならない。というのが最近欧米における社会主義者のあいだにおこっている声である。」
ここにおいて、近時欧米の社会党は議会政策のほかに社会革命の手段方法を求めるにいたった。それは十九世紀前半の遺物たる匕首、爆弾、竹槍、むしろ旗のたぐいではない。ただ労働者全体が手をこまねいて何事をもなさざること数日、もしくは数週、もしくは数月ならばすなわち足る。社会一切の清算交通機関の運転を停止すればすなわち足る。換言すれば、いわゆる総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行なうことにあるのみである。幸徳のいう直接行動というのは、端的にいえば「ゼネストによる革命」である。
この日(6月28日)から、京橋区出雲橋際の加藤時次郎の病院に移り住み、7月4日には、妻千代子を連れて郷里の高知県中村に帰省。
幸徳は前から肺結核を患っていたが、アメリカ滞在中からしばしば下痢症状を起し、腸結核を併発している気味もあり郷里で暫く静養するつもりであった。
6月29日
章炳麟、出獄。日本へ赴く。
6月29日
米、ヘプバン法制定。
つづく

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