2009年7月23日木曜日

治承4(1180)年4月9日(4) キー・パーソン八条院暲子

そもそもこのシリーズは、頼朝の天下草創から北条政権の終焉までを扱おうとして、それには以仁王の令旨から始めるのが妥当と考えスタートしましたが、未だに以仁王・頼政の挙兵にまでも至っていない。
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もう少し辛抱願います。
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さて、以仁王の挙兵に至る過程には、その舞台に4人の人物が登場します。
①以仁王(前回のエントリ)
②源三位入道頼政(叛乱を説く(1)(2)。頼政という人(1)~(4)までで中断中)
③今回扱う八条院
④源行家(次回以降)
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治承4(1180)年4月9日(4)
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▽キー・パーソン八条院暲子(あきらこ、1136保延2~1211建暦元):
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時子内親王。白河天皇の第三皇女。母は藤原長実の娘得子(美福門院)。
保延4年に内親王、久安2年准三后。
久寿2(1155)年、同母弟近衛が没し、翌年に父・鳥羽院が没し、保元の乱が勃発。
翌保元2(1157)年、彼女自身も出家。鳥羽上皇と美福門院の膨大な遺産(荘園)全てを相続(「八条院領」)。
この膨大な院領と鳥羽院政直系という血筋により、八条院暲子は平安末~鎌倉初めの政治情勢に深い影響を与える。
以仁王の叛乱は八衆院を舞台に起こる。
以仁王は八条院の猶子、
頼政は八条院に仕え、
③令旨は八条院の蔵人に任じられた源行家により東国の源氏のもとに伝えられる(定家も八条院に仕える)。
後白河から高倉・安徳と続く皇統に対して、八条院はそれに外れた皇統の庇護者となっている。
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八条院は、未婚で実子はないが、1161年(25歳)、二条天皇の准母となって院号をもらい、次いで以仁王を猶子にする。
二条天皇・以仁王は、八条院の甥。八条院は実子を持たないが、自分と同系血筋で才能のありそうな者を猶子としていったと考えられる。
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八条院の「三条の局」に以仁王が生ませた男女の若宮があり、男は出家させられ後に「安井の宮道尊」として名僧となる。女は「三条の姫宮」といわれ八条院の養女となる。
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1186年(50歳)、九条兼実の子・良輔を猶子とする。
1196年(60歳)、女院が重態となった時、財産の大部分を三条姫宮に、残りを九条良輔へ譲る。
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しかし結局、女院は長らえ、1204年三条姫宮が夭折し、遺産は再び女院に戻る。
後鳥羽天皇の昇子内親王を養女とし、最後はこの内親王が八条院領を継ぐ。
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また、八条院の猶子になっていることから、以仁王が八条院のメガネにかなった優れた人物である事が傍証できる。
以仁王は女院の女房・三条の局に2人の子をつくるほど親しく通っており、この叔母-甥は親しい付き合いであったと考えられる。
八条院は更にその子・三条姫宮を養女にし、膨大な遺産が後白河-閑院流の系統へ流れて行くべく工夫を凝らしている。
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八条院は、頼政-以仁王の謀叛の財政的黒幕の位置にあり、謀叛の計画の一部始終を承知していたと考えられる。
八条院暲子は建暦元年(1211)75歳で没。
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女院の制について。
一条天皇が、皇太后藤原詮子の為に創始し、上皇に准ずる待遇と院号・門院号により生活と名誉を保証する制度。
その後、女院は、その高い地位と豊富な経済力により、政界の隠然たる力となり、時には政治運動の有力拠点となり黒幕となる。
女院は、年給(年官年爵)を賦与され、叙位・任官権の一部を握り、栄爵を求める多くの官僚と直接的に結びつくこととなる。
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例えば、この年治承4年正月26日の春の除目の叙位案では、皇嘉門院・上西門院・八条院・中宮坊・春宮坊・後白河院皇女前女御琮子から夫々2人(皇嘉門院は1人)の推薦者が上程されている。
このように、除目・叙位の度に、朝儀はこの「院宮中文」を受理してこれに応えている。この背後には、叙任されたり、官位を得たりする者と、申請者との間に、利益の交換があることをも意味する。
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また、有力政治家は院宮らと結びつき、その力を万全なものにしようとする。
例えば、
①近衛家は鳥羽院后高陽院と結んでその所領をうけ(「吉記」寿永2年12月2日)、松殿家は基房の子隆忠が上西門院の猶子となる(「玉葉」寿永元年7月9日)。
②九条家は、兼実の子良通が皇嘉門院の養子(「玉葉」承安5年3月6日)、次男良経は高松院の猶子(「玉葉」安元2年3月10日)、3男良輔は八条院の養子となり(「玉葉」文治2年2月4日)、兼実は、八条院女房三位局を娶る(「玉葉」元暦2年9月20日)。
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