2011年5月21日土曜日

永禄4年(1561)1月17日~4月21日 織田信長・松平元康和睦 上杉謙信の小田原(北条氏)包囲 カトリーヌ・ド・メディシスの融和政策 [信長28歳]

永禄4年(1561)
この年
信長28歳、光秀34歳、秀吉26歳、家康20歳
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・スペイン国王フェリペ2世、宮廷をマドリードに移す。始めてスペインの首都が確定。
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1月
・長尾景虎(上杉謙信、32歳)、上州厩橋在陣。上杉憲政と共に。
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・若狭で国吉城主栗屋勝久と砕導山城主逸見昌経勢の反乱。
6月19日、鎮圧。
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1月17日
・松永久秀、鉢屋紹佐の茶会に出席。客は松屋久政・堺宗可ら。
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1月22日
・フランシス・ベイコン、エリザベス治世の初期の国璽尚書ニコラス・ベイコンの次男として誕生。
母はウィリアム・セシルの妻ミルドレッド・クックの妹アン。
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1月24日
・三好義長・松永久秀(52)、上洛、将軍足利義輝に参賀。将軍これを相伴衆とする。
28日、三好義興・松永久秀(52)、従四位下昇叙。
主君の三好長慶も従四位下修理大夫なので、主君と並ぶほどとなる。この日、一旦藤原姓として口宣案を得るが、2月1日、将軍家より桐紋の使用を許可された為、4日、改めて源氏姓として叙任。
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1月24日
・藤原惺窩、冷泉為純の子として誕生。近世朱子学の祖
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1月28日
・フランス、オルレアンの寛容王令。母后カトリーヌ・ド・メディシスの融和政策。
司法、警察及び教会制度に関する改革案。
31日、カトリーヌ・ド・メディシス、オルレアンの「全国三部会」を解散させる。
三部会解散前、各地の高等法院に宗教上の理由で拘置されている人々を釈放させる。
新教徒指導部、この措置をカトリーヌの弱さの表れと解釈
(自分たちの信仰を挑戦的な方法で表明することを奨励していると受け取り各地で騒乱開始)。
特に南フランスでは深刻な経済不安がこれに輪をかける。
スペインを通してアメリカ大陸から大量の貴金属が流入、貨幣の購買能力が10年間で50~60%下落、貴族と農民を直撃。
ガスコーニュとラングドックの新教派貴族、計画的にカトリック貴族の領地を劫掠。
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2月
織田信長・松平元康和睦
織田・松平両氏の老臣(織田方林通勝・滝川左近将監。松平方石川伯耆守、高橋与左衛門)、尾張の鳴海に会して尾・三両国の境などを取り決める。
元康の生母於大の方の兄水野信元の仲介。
元康は義元の弔い合戦の勧めに応じない今川氏真を見限り、これと断交した上で信長との和睦を決める。
これにより西方の心配はなくなり、三河から今川氏の支配力を排除するべく掃討作戦に着手。
9月、東条城を陥れて西三河の平定に成功。
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・上杉景虎、武蔵薬王院へ制札を下す(「薬王院文書」)。
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・浅井賢政(長政)、横山城築城(観音寺文書)。
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2月5日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、宮廷をフォンテーヌブローに設置。
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2月9日
・井伊直政、遠江井伊谷祝田村に誕生。徳川四天王の1人。
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2月11日
・上杉景虎、蔵田五郎左衛門に越後の府内警備を命ずる。
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2月12日
・武田信玄、1万3千余騎を率い甲州から砥沢砦に着陣。上州国峰城降伏。城主小幡景純(兄重貞を追い、城主となる)、自刃。
城を回復した重貞、国峰城を中心に甘楽一帯と和田城等を調略、箕輪城攻めにて安中城攻略等に参加、信玄の西上州攻略に大きく貢献し、武田24将に数えられる。
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2月23日
・上杉景虎(32)、総勢11万5千余騎を率い北条氏康の小田原城攻略のために上野赤石に進撃。
北条氏康は武蔵滝山城に入って防戦。
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3月
・毛利元就・隆元父子、隆景の居城雄高山を訪問。
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・武田晴信(謙信)、軽井沢に出陣。
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ4子・長男ジョヴァンニ・デ・メディチ(前年、新枢機卿就任)、ピサ大司教となりピサへ赴任。
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3月1日
・フランス、下獄中の新教徒釈放の勅令。
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3月1日
・イエズス会宣教師ルイス・フロイス、古家を買い取り仮聖堂を建てる。
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3月7日
・長尾景虎(謙信)、関東管領上杉憲政を奉じて北条氏康の籠もる小田原城を攻囲。ついで鎌倉へ行く。
11日、長尾景虎、越後上田荘・妻有荘・薮神の水損に対して徳政を行う。
13日、長尾輝虎中心とする関東諸侍10万、北条の小田原城包囲開始。上野国人をはじめ武蔵忍の成田氏、武蔵岩槻の太田氏、常陸小田の小田氏、常陸太田の佐竹氏、下野の宇都宮氏、海上からは安房の里見氏(義弘)が加わる。20日余で包囲を解く。
14日、景虎勢、大藤式部と相模大住郡大槻に戦う。
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3月18日
・三好長慶弟で「鬼十河」の異名を持つ讃岐の猛将十河一存(30前後?)、病歿。4月23日の記述もあり。
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3月30日
・将軍義輝、三好長慶に細川晴元を許し和睦するよう要請。この日、京都立売町の三好邸へ将軍の御成があり、松永久秀、太刀を献上し御伴衆の接待を務める。
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3月
上旬
・越後勢、小田原城包囲解き、鎌倉へ後退。
武田晴信、信濃・上野国境笛吹峠に進出。加賀一向一揆蜂起。
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16日、長尾景虎(32、関東管領と上杉姓を相続)、鎌倉八幡宮で関東管領就任を報告、拝賀式。
上杉憲政の一字とり藤原「政虎」と改名。
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4月
・武田晴信、碓井峠を越えて、上野へ侵攻。
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上旬
・信長、三河加茂郡の梅ヶ坪城・伊保城を攻撃。
翌5月、挙母城(愛知県豊田市)の中条氏を屈服させ、高橋荘一円(巴川以西の加茂郡西部一帯、のち高橋郡と称す)を自領とする。郡内の給人は「高橋衆」として織田家臣団に編成される。
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・福屋隆兼、毛利氏に対して謀叛。
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・浅井賢政、長政と改名。信長妹、お市と結婚。
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4月6日
・朝倉義景、三里浜南部の坂井郡大窪ノ浜で、「御伴人衆一万余人、馬場の広さ八町、見物の貴賎その数を知らず」という大規模な犬追物を興行(「朝倉始末記」)。
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4月6日
・フランス、カトリック「三頭政治」始まる 。
①ギーズ公フランソワ(42、1519~1563)、②アンヌ・ド・モンモランシー、③サン・タンドレ(アルボン元帥)。        
三頭政治のきっかけ。
カトリーヌ・ド・メディシス、四旬節の説教者にヴァランス司教モンリュックを選任
(モンリュックは司教にもかかわらず「新教派」と見なされた。カトリックのモンリュック元帥の弟)。
説教に激昂したモンモランシーが宮廷礼拝堂を飛び出し階下の厨房に行くと、ドミニコ派修道士の説教を聞いていたギーズ兄弟とアルボン元帥に出会う。
3人は、信仰で一致し互いに接近しその日の晩に「三頭政治の形態」を作り上げる。
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4月8日
・北條氏政、畑彦十郎に河越籠城の戦功を賞する。
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4月15日
・三河の菅沼一族、今川氏に背き松平元康の傘下に入る。
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4月19日
・フランス、シャルル9世勅令。
「夫々の住居内で門を閉ざして自由に祈る自由」を付与。
三頭政治に抗して改革派政策をとる。
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4月21日
・フェラーラ公アルフォンソ2世妻ルクレツィア大公妃(16、コジモ娘)、フェラーラで病死(砒素による毒殺?)。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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