2011年5月14日土曜日

永井荷風年譜(10) 明治39年(1906)満27歳~明治40年(1907)満28歳 「余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。」  遂にフランスに渡る

永井荷風年譜(10) 


明治39年(1906)満27歳
1月1日
元日の朝はニューヨークのチャイナタウンで迎える。
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1月5日
ワーグナー「トリスタン」を聴いて感銘をうける。
~1月8日まで、メトロポリタン歌劇場で、毎夜、ファウスト、トリスタン、ドン・パスクワーレ、トスカを観覧。
この頃からワシントンの娼婦イデスが毎週末にニューヨークへ会いに来る。
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この頃、銀行勤務の余暇はコンサートや観劇に集中する。
「そもそも余が最初海外の旅行を思立ちたるは西洋劇の舞台を看ん事を欲したればなり」(『西遊日誌抄』前年12月23日)
また、西洋音楽を系統的に知るため数冊の書物を購入。
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1月7日
フランス婦人の家に移り、フランス語会話を練習。
「仏蘭西人の家に行李を移す」。
その家の「主婦は年六十ばかり」で「余はこれより日々仏語の会話を練習するの機会を得たるを喜ぶ」(『西遊日誌抄』1月7日)。
フランスへの憧れは日に日に高まっていく。
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「一月九日
……家に帰るに机上一封の書ありイデス余を見んとて次の週間に紐育に来るべしと云ふなり。イデスは華盛頓の娼婦なり去年の夏かの都に遊びし折ふと馴れ染めその後は折々文取りかはしゐたりしなり」
「二月十四日 娼婦イデスの手紙来る事連日なり わが心歓喜と又恐怖に満さる」
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2月~3月
タンホイザー、アイーダー、ローエングリーン、パルシファルなどワーグナー歌劇を観賞。
また、カーネギーホールでクラシック音楽を鑑賞。
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4月
ニューヨークを訪問したロシアのゴーリキがひどく冷遇された経緯を記す。
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フランスへの憧れ 
四月二十三日 銀行午餐後サウスフェリーとよぶ波止場の公園を歩む。春の海は空と共に青々と晴れ渡りたれば湾頭に屹立するかの自由の女神像はいつよりも更に偉大に打望まれたり。
余はこの湾頭遥に大西洋を望めばまだ知らぬ仏蘭西の都と其の芸術の恋しさに今の我が身の果敢なきを思ひ無限の悲愁に打沈めらるゝを常とす。
あゝ何事も思ふまじ何事も見まじとて急ぎ銀行に帰り帳簿の上に顔ひたと押当てぬ」(『西遊日誌抄』)
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5月25日
春と秋」を浄書
同月27日、「長髪」脱稿
それぞれ巌谷小波宛送付。
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6月11日
「雪のやどり」を清書して「太陽」に送付。
銀行勤務の苦痛の度が増して来る。
フランス語の夜学に通い始める。
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6月20日
チャイナタウンの魔窟に出入りし、アヘンを吸う賎業婦の悲惨を見て親密感を覚えたという。
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7月
モーパサン、フローベールの小説を読む。
銀行内では次第に行状への悪評が広がり、解雇の噂が広がる。
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7月8日
ニューヨークに来たイデスと再会して交情を深める。
22日、「夜半の酒場」を執筆。
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七月八日 イデス巳に紐育に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつゝありと云ふ。余はこの電報を片手にして馳せ行けり。
あゝ去冬十一月落葉蕭々たる華盛頓の街頭に別離の涙を濺ぎしより恰も九箇月なり。彼は一日とてもその夜の悲しさを忘れたる事なしとて熱き接吻もて余の身を掩へり。
ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて三鞭酒(シヤンパン)を傾け酔歩蹣蹣跚腕をくみて燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。
彼の女はこの年の秋かおそくもこの年の冬には紐育に引移りて静かなる裏通に小奇麗なる貸間(フラツト)を借り余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でゝやまず」

しかし、葛藤もある(イデスと共に居るか、芸術のためにフランスに渡るか)。
「余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉し忝じけなさ涙こぼるゝばかりなれど、それと共に又やがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては寧ろ今の中に断然去るに如かじとさまざま思ひ悩みて眠るべくもあらず。
今余の胸中には恋と芸術の夢との、激しき戦ひ布告せられんとしつゝあるなり」
「悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし」

翌日の午後、イデスは帰って行く。
イデスは車窓から胸に挿していたバラの花を荷風に向かって投げる。
「余は突然いかなる犠牲を払ふとも彼の女を捨つること能はずと感じぬ。
昨夜の二心は忽ち変じて今は一刻だも彼の女なくしては生くる事能はざるが如き心地となれり」
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七月十日 彼の女がこと心を去らず。
余はさまざま有られもなき空想に包まるゝ身とはなれり。
そもそも余が父は余をして将来日本の商業界に立身の道を得せしめんが為め学費を惜しまず余を米国に遊学せしめしなり。子たるもの其恩を忘れて可ならんや。
然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。
余は寧身を此の米国の陋巷にくらまし再び日本人を見ざるにしかじと思ふ事廔なり。イデスはやがて紐育に来りて余と同棲せんと云ひしにあらずや。
余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。かゝる暗黒の生活は余の元来嗜む処なるを」
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8月1日
従兄の松三から「君近頃銀行内の評判宜しからず解雇の噂さへあるやに聞及べり」と言われ、「心大に憂ひ悲めり」(『西遊日誌抄』)。
この「評判」は父親にも届いているはず。
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8月15日
ワシントンの娼婦イデスがニューヨークに移り住み、逢引も頻繁となる。
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9月中旬~10月初め
病気(腸チブスの疑い)のため欠勤。
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11月
カーネギーホールにニューヨーク・シンフォニーの演奏を聞き、メトロポリタン歌劇場にロメオとジュリエット、タンホイザー、シーザーとクレオパトラ、リゴレット、ファウスト、カルメン、ポエーム、ラクメを見る。
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明治40年(1907)満28歳
1月
これだけ放蕩を尽くしても解雇されないのは不思議だと意外に思う。
この月、メトロポリタン歌劇場にてカルメン、ジークフリート、ロメオとジュリエット、椿姫を見る。
また、マンハッタン歌劇場にドン・ジュワンニを聴く。
1月6日、「旧恨」脱稿(5月1日「太陽」掲載)。
この頃、ミュツセの詩集を読んで感動。
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1月17日
再びド・トゥール夫人のアパートに移る。
フランス行の志望を父に訴える。
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6月
ニューヨーク湾内のスタトン島(スタッテン島)に避暑。
イギリス娘ロザリンを識る。

(『あめりか物語』「六月の夜の夢」のロザリン)
「僕がフランスに行く事を聞いて、其れまでは深くかくして居た胸の秘密を打明けて呉れたイギリス生れの少女がある」
「僕は其の少女と毎夜田舎の森海辺を歩み、唯だ涙に暮れて居る。
のろけるぢやない、人生は冗談事ではない。一種の野心にかられてフランスを夢みた事を悔もする、『自分』と云ふものを中心にして、幾多の人が不幸を見たであらう、僕の父も、僕が居なければ、何の心配もなかったらうし。かの少女も又僕の居た為め少くとも悲哀の手に触れた。
人生は意志の強いものには愉快であらうが、女々しい僕には時として堪えられない事が多い」(7月9日西村恵次郎宛て手紙)

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7月2日
(横浜正金銀行)リヨン支店へ転勤を命じられる。
父の配慮(どこまでも「甘い」父である)。
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7月9日
イデスと別盃を酌む。また、在米日本人グループが送別会を催す。
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7月18日午前9時、フランス汽船「ブルタンユ」号でハドソン河口の波止場を出帆。
7月27日、ランスのル・アーブル港に着く
7月28日正午、パリ着
7月29日夕方、パリ発
7月30日午前3時、リヨン着。
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「イデスと別杯をくむ。此の夜の事記するに忍びず。彼の女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二三人もあればいかにもして旅費を才覚しこの冬来るらざる中に巴里に渡りそれより里昂に下りて再会すべしといふ。あゝ然れども余の胸中には最早や芸術の功名心以外何物もあらず、イデスが涙ながらの繰言聞くも上の空なり」(『西遊日誌抄』)

「世間では米国の女と云ふと男の手には合はぬ様に云ふが、其の女の如きは日本の女よりも気立がやさしい。僕は手を切らうと思って随分不親切な事もしたが、遂にだめであった。

僕は生活の非常に高いニューヨークでホテルや料理屋の最上等の処をすつかり知つて居るのも、其の女のおかげで、若し僕に一点の良心がなかつたら、悠々として何にもせず其の女に食はしてもらつて居たであらう。いや、其れが先方の志望で、僕はさまざまな誘惑の手段をうけた。
フランスに出発する時には非常に面倒だと思つた処が、彼の女は、僕のフランス好な事を知つて居るのと、僕の将来を思つて、泣きながら何とも云はずに出発さして呉れた」(9月23日付、西村恵次郎宛手紙
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8月2日
ローン河西岸ワンドーム街に下宿。正金銀行リヨン支店はラルブル・セック街19番地にあった。
オペラや音楽会に通い、またユイスマンス、アンリー・ド・レニエー等の作品に親しむ。
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11月中旬
マルセイユ周辺に旅行。
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11月末
「アメリカ物語」を脱稿して巌谷小波に送り出版を依頼。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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