2011年5月28日土曜日

永禄4年(1561)5月1日~7月29日 信長の美濃攻め 森部の戦い 十四条・軽海の戦い [信長28歳]

永禄4年(1561)
5月
上旬
・武田信玄、海津城入り。上杉方に走った仁科・海野・高坂ら信濃先方衆討伐。
5月7日
・武田信玄、信州安曇の森城(仁科盛政)攻略。盛政は自害。
5男の五郎晴清を仁科姓を継がせる。仁科五郎盛信。
仁科氏は清和源氏末流の名家。仁科氏が代々「盛」を世襲しているため、名を仁科五郎盛信と改名させて森城主とし親族衆100騎持となる。
仁科家旧臣・領民の感情を慰留するための政策。
かつて諏訪氏を滅ぼした時も、諏訪頼重娘の湖衣姫を側室にし、その間に生まれた四郎勝頼を永録5(1562)年高遠城城主とし諏訪家後継としたのと同様の政策。
*
5月1日
・関東管領となった上杉政虎(上杉謙信)、鎌倉で猿楽を行う。
*
5月6日
・三好長慶と細川晴元が和睦。晴元は摂津富田普門寺に入る。 三好長慶、細川晴元を普門寺に迎え軟禁。
*
5月11日
・稲葉山城主斎藤義龍(35)、急死。子の龍興が跡を継ぐ。
今川義元を討ち、松平元康と和平することで東方の憂いは無く、更に斎藤義龍急死により、信長は本格的に美濃侵攻作戦に着手。
*
5月13日
信長、美濃国内の動揺につけ込み西美濃に侵攻、木曽川を越え勝村(海津郡平田町勝賀)に着陣。信長1,500、3度目の州俣出撃。
信長の美濃攻め以降、永禄10(1567)年8月迄、7年間続く
(①丹羽長秀・木下秀吉・森可成・坂井政尚ら部将が育つ。
②美濃衆が織田軍団に編成される)。
*
5月14日
森部の戦い
長井甲斐守・日比野下野守・義龍嫡男龍興(14)6千余、墨俣南方の森部(安八町)出撃。
信長(28)1,500、洲俣川を渡河し敵へ殺到。
信長健闘。斎藤勢大敗。長井甲斐守・日比野下野守ら有力武将他170余戦死。
前田利家、大功たてる(永禄2年信長同朋衆を殺害、信長の勘気をこうむり、出仕停止処分を受けていたが、赦免)。
*
5月15日
・シャルル9世、ランスで戴冠式、国王に聖別される。
聖別したランス大司教ロレーヌ枢機卿シャルル、フランス王政が厳守すべき絶対的な政治原理を宣言。
「フランスは、カトリックを奉じる 王以外の王は戴かない」。
*
5月23日
十四条・軽海の戦い
森部の戦い後、信長は墨俣を奪い要害として滞陣。
23日、斎藤勢が北方の十四条に進出。墨俣から出た織田信長と稲葉山から出た斎藤龍興との十四条村(本巣郡真正町)での戦い。
劣勢の信長、退却。
追撃の美濃勢と軽海で戦い。信長が勝利。
織田方では先鋒の信益(信清の弟)、斎藤方では稲葉又左衛門が戦死(佐々成政・池田恒興が討ち取る)。
*
5月27日
・三好長慶、河内飯盛城で千句連歌。
*
*
6月
この月
・信長、再び美濃に侵入、稲葉山城下の民家に放火(同族の織田越中守が戦死)。
ついで安八郡の平野荘神戸市場に全3ヶ条の「禁制」を下す。この禁制により、信長軍が大垣北方にまで侵入したことが確認できる。
下旬には、信長、斎藤龍興と結んだ織田信清の於久地(愛知県丹羽郡大口町小口)を攻撃。
信長御小姓衆の岩室長門守、戦死(桶狭間出撃の際、信長にいち早く随従した人物。信長はその死を惜しむ)。(「信長公記」では永禄5(1562)年)
*
・宇喜多直家、金川城主松田元賢属将の備前上道郡龍の口城(城主穝所治部元常)を討つ。
*
・フランス、アントワーヌ・ド・ブルボン(43、1518~1562)、新教を棄教、カトリックに転向。
カトリーヌ・ド・メディシス、女官をアンリ2世時代の80人を300人に増員、女官集団を「遊撃騎兵隊」と呼ぶ(マントヴァのイザベッラ・デステと同じ戦術)。
アントワーヌ・ド・ブルボンに女官ラ・ベル・ルーエ(ルイーズ・ド・ラ・ベロディエール)を派遣、アントワーヌを「ヴィーナスの虜」にする。
アントワーヌは   、ラ・ベル・ルーエの依頼でカトリックに転向。宮廷・カトリーヌ一派に加わる。
1562年、ルーアン攻囲戦で国王軍に参加して戦死。
アントワーヌとラ・ベル・ ルーエの息子、シャルル・ド・ブルボン(ピレネー山中コマンジュ大司教)。
*
上旬
・武田信玄1万、信濃上水内郡野尻湖畔割ヶ城攻撃。
*
6月10日
・上杉謙信、北条氏康軍と再び対陣。
*
6月15日
・フランス、パリ高等法院、ルイ・ド・コンデを再審(1560年(前年)オルレアンで死刑判決)。
*
6月19日
・若狭守護武田義統の臣・逸見昌経ら、丹波の松永長頼と謀り反乱、義統を攻める(1月、朝倉義景、朝倉景紀を派遣し義統を援ける)。
この日、義統は朝倉氏の援軍1万1千と共に砕導山に篭もる逸見らの軍8千を陥落。
しかし、逸見氏・粟屋氏を討伐するには至らず。
三方郡佐柿の粟屋勝久ら同郡の武士たちは、病気・所用を理由に惣領家へ「出頭」しなくなる。
家臣の分裂は、若狭三郡の地域の分裂となって現われる。
三方郡で粟屋勝久を中心とする自立的秩序が形成されたように、郡毎の新しい秩序形成の動きでもある。
義統は、縁者である朝倉義景の合力を得て大飯郡の逸見氏の反乱を鎮め支配回復するものの、三方郡の粟屋氏らに対しては、義景の合力を得つつ永禄6年~11年まで毎年攻撃を繰り返さなければならず、丹後加佐郡に続いて三方郡も、武田氏支配から分離していく。
*
6月21日
・上杉政虎(32、謙信)厩橋城を出発、28日、春日山城に帰還。(小田原攻め)
*
6月25日
・松永久秀、多聞山城の塀に使用する柱の用木として、花山の杉を70本余り切る。
*
*
7月

・六角義賢、洛中洛外寺社へ禁制を下す(「大徳寺文書」)。
・松永久秀、京都大徳寺・清水寺へ全3ヶ条の禁制を下す。
*
・フランス、サン・ジェルマン・アレー勅令。新旧両派の和合を説く。
*
7月7日
・イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラ、堺の商人日比屋了珪に招かれて堺に赴く。
*
7月13日
・フランス、国務会議、改革派の集合と宣教を禁止。
*
7月21日
・朝廷、賀茂社へ警固人数を徴集。
22日、禁裏六町衆へ東堀を開削させる。(「御湯殿上日記」)
*
7月23日
・畠山高政(紀伊に逼塞中)、近江観音寺城主六角義賢と共謀し、河内を追われた前守護代安見直政らの残党と共に三好長慶打倒挙兵。先手根鉄砲来衆、岸和田着陣。
28日、六角義賢・六角義治軍(永原重隆指揮)3千、晴元党の三好政勝・柳本賢成のゲリラ隊を集め、京都東北部の慈照寺北方勝軍地蔵山城(左京区、京都造形芸術大学の裏山)に進駐。
義賢は翌永禄5年3月まで約8ヶ月在j城。坂本・大津には2万の大軍。
29日、粟田口を焼く。
*
7月29日
・三好長慶、兵力を2分し、
①松永久秀7千を京都西院小泉城(右京区)に、他の7千を梅津に進駐させ、
②高屋城三好実休(長慶の弟)7千を南方の押さえとして岸和田へ急行させる。

六角義賢3千は寡兵ながら神楽岡(京都大学東方)に布陣し連日松永軍を攻撃。
長慶は本城河内飯盛城(四条畷市)で指揮。岸和田戦線は激しい撃合いが続く。
翌永禄5年3月、和泉久米田の戦いで三好実休戦死し均衡破れる。
*
「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
*          

0 件のコメント: