明治7年(1874)
4月10日
・立志社結成
板垣退助が土佐で結成。片岡健吉社長。
当面の目的は士族授産と学校設立による新時代教育。
5月15日、初めての演説会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
立志社同人達は、その「設立之趣意書」に「国ノ本」としての国民が政治的主体としての自己を確立する為に、自己教育の課題を提起。
こうした政治と教育の不可分性を自覚した同人たちは、政治結社としての立志社の付設機関として、法律研究所と並び、立志学舎を開設(同月14日開校)。
立志学舎は、漢学・洋学・数学・体育など「中学校ノ体ニ基」く教育にあたり、当時の高知県では、「学問として、・・・西洋学は立志社に洋学校あり」といわれ、「関西の慶応義塾」とも呼ばれる。
1874(明治7)~79年(閉鎖)の6年間の教員・生徒数は、(変動が激しく安定を欠くものの)年間平均教員約8名、生徒130名。
立志社=立志学舎とほぼ同様に、各地の民権運動は、国民の権利の確立・伸張の要求を機軸として、自己を近代的な政治=教育主体として鍛え解放する為に、学習=教育機関としての学舎を開設し、その中で教育における自主と自由の権利の自覚を深めて行く。
石陽社=石陽館(福島)、三師社=正道館(同)、求我社=行余学舎(岩手)、白郷社=自郷学舎(福井)、奨匡社=奨匡学舎(長野)など。
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4月10日
・英特派全権公使パークス・外務卿寺島会談。
副島は無主の地への「打蕃撫民」と説明するが、パークスは日清間の紛争は英資本の経済活動に影響あり危惧する。
また、清政府へは柳原全権公使が伝えると説明すると、パークスは順番が逆と反撃。
13日、パークス、清が日本の台湾出兵を敵対行為と見做す場合、参加の英人・英艦を召喚すると警告。
パークスが、各国外交官に同調呼びかけ、ロシア、スペインが局外中立を表明。
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4月13日
・岸田吟香、台湾征討軍に従軍記者として参加
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4月13日
・佐賀裁判所判決。
征討総督東伏見宮嘉彰親王・参議兼内務卿大久保利通臨席。
征韓党江藤新平(40)、憂国党島義勇(52)梟首、他斬首11名。夕刻執行。
大久保日記「江藤醜躰笑止なり」。
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4月15日
・軍艦「日進」「孟春」以下を率い遠征根拠地長崎に向う西郷従道、佐賀に立ち寄り大久保利通と出兵につき会談(「徹夜あい話した」)。
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4月15日~5月15日
・第1回印象派展、パリ。
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4月16日
・上海の新聞「申報」、日本の台湾出兵意図に疑惑を示し、当局の奮起を促す。
日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、
「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑を示し、
もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促す。
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4月17日
・大久保利通、佐賀発、帰京へ。
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4月17日
・横浜の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」、台湾派兵は戦争の原因になるかもしれないのに、日本政府は出兵を公告していない。外国公使は中立とすべき。アメリカは中立義務を違反している、主張。
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4月18日
・アメリカ公使ビンガム、清政府からの名分の了解ない限りアメリカ人・アメリカ艦の参加を禁止すると通告。
寺島外務卿は、三条太政大臣にリゼンドル、カッセル、ワッソン3名とアメリカ艦の台湾行き差し止め上申。
ビンガムは、前年10月、デロングの後任として来日、デロングの方針を継いで日本政府の台湾政策には好意的で、カツセルの雇用にも尽力していた。
その後、ビンガムは、17日付け「ジャパン・ヘラルド」の記事に影響をうけイギリス公使パークスに追随する強硬態度に変わる。
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4月18日
・駐清イギリス公使ウェード、駐日公使パークスからの情報を総署へ通報。
20日、清国総税務司ロバート・ハートも総署へ通報。
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4月18日
・木戸孝允、参議・文部卿辞任。台湾遠征に反対して。
2日には閣議決定書への参議としての承認押印拒否。
5日、伊藤博文も岩倉への手紙で政府の台湾方針に危惧を示し、5月、郷里山口に退去。
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ドイツから帰国し、この年3月から4ヶ月近く木戸邸に食客として過ごしている青木周蔵(外務一等書記官)は、岩倉具視から木戸の慰留周旋を依頼される。
以下、「青木周蔵自伝」より。
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青木が、岩倉と会って木戸邸に帰った夜中の12時過ぎ、木戸は静座して待っていた。
「予(青木)は直に翁(木戸)に面し、其の質問に応じて右大臣(岩倉)の論旨を逐一申告し、更に留任を苦諫(クカン)せしに、翁は一言だも発せず、沈思黙考するものの如くなりしが、卒然翁と予との間に在りし桐の火鉢を取て之を坐上に擲ちたり。熱灰は室内一面に飛散して、燈火も為に其の明を没し、炭火は散乱して畳を焦す・・・」。
青木が質問する。「此の火鉢は不肖に向て投ぜられしが、何等の不興なるぞ」
木戸は涙を浮べて「何の理由をて足下に投ぜんや。唯感慨に堪へず、茲(ココ)に至りしなり」と答える。
青木が、苦諫して木戸の感触を害したことを謝まる。
木戸は、「何とて謝する事の必要あらん。足下の如き人物、我友人中果して幾人かある。是れ予の感慨に堪へぎる所なり」と言い、青木を抱擁してまた泣く。
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これが、長州藩閥ナンバー2の伊藤博文でないところに、旧長州藩・政府内における木戸の孤立が示されている。
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4月19日
・政府、アメリカからの雇船計画が崩れ、台湾遠征軍出動見合わせを大隈・西郷に連絡。西郷はこれに強硬に反対。
この日、大臣・参議が緊急に集会するものの、大久保は佐賀に、大隈も長崎に出張中で、出兵強行か中止かも決断できず、とりあえず清政府に至急問い合わせ、その回答が到着するまで遠征軍出動を見合わせることとする。
その旨を長崎の大隈に電報で命令し、こうなったからには「この度の一挙、成功の目的万々これあるまじく」、しかも「各国の公論、台湾は支那の版図たること判然たる上は」、遠征を一時中止せざるをえないであろうとの三条の書簡を携行した使者を長崎へ急派。
大隈は、遠征一時見合わせの電報に接して弱気に転じるが、西郷都督は出発延期命令に従わない。
リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グループも強行を主張。
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4月20日
・ドイツ帝国議会、セプテナート(7年分の軍事予算)を一括承認。
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4月21日
・原敬(18)、エブラル神父の学僕として新潟へ赴く。~翌明治8年9月。
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4月24日
・大久保、佐賀より帰京。
台湾出兵に対するイギリス・アメリカの干渉は、「まことに大事の国難」と痛感し、「兵隊進退」の委任をうけて、29日、東京を出発して長崎へ急ぐ。
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4月24日
・(露暦4/12)チャイコフスキー、オペラ「オブリーチニク」初演。モスクワ、マリンスキー劇場。ラジュチニコフの歴史小説。
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4月27日
・西郷従道、厦門領事陸軍少佐福島九成に清国閩浙総督李鶴年宛の出兵通知書を託し、独断で兵200を有功丸で派遣。アメリカ人カッセル、ワッソンも同行。
5月3日、福島は厦門に到着、現地当局経由で台湾管轄の李総督に出兵通知書を伝達。
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4月27日
・内閣顧問島津久光、左大臣就任。
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4月28日
・樺太支庁、東シララカ・ウショロ両出張所に漁場廃止の旨通達。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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