2011年5月15日日曜日

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の3) 「私の友人で送籍(そうせき)と云ふ男が・・・」

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の3)

ここに、「吾輩の無聊(ぶれう)を慰むるに足る程の頭数を御揃」えるかの如く、久しぶりに越智東風が現れる。

まず迷亭が春の朗読会以降何か新しい趣向はないのかと東風に尋ねる。
(この朗読会では、東風は「御宮」をやったらしいことが分かる)
迷亭の質問に寒月が反応する。

「東風君僕の創作を一つやらないか」と寒月。
「・・・一体何かね」
「脚本さ」
「脚本はえらい。喜劇かい悲劇かい」

(寒月は「俳劇」なるものを考案したらしい)
「なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は旧劇とか新劇とか大部やかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇と云ふのを作って見たのさ」
・・・「俳句趣味の劇と云ふのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」
「先づ道具立てから話すが、是も極(ごく)簡単なのがいゝ。舞台の真中へ大きな柳を一本植楯ゑ付けてね。夫から其柳の幹から一本の枝を右の方へヌツと川させて、其枝へ烏を一羽とまらせる」
「・・・。其下へ行水盥(ぎやうずゐたらひ)を出しましてね。美人が横向きになつて手拭を使つて居るんです」

「そいつは少しデカダンだね。第一誰が其女になるんだい」と迷亨。
「何是もすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇つてくるんです」
「そりや警視庁が八釜敷云ひさうだな」と苦沙弥先生は心配する。
「だつて興行さへしなければ構はんぢやありませんか。そんな事を兎や角云つた日にや学校で裸体画の写生なんざ出来つこありません」
「然しあれは稽古の為だから、只見て居るのとは少し達ふよ」
「先生方がそんな事を云つた日には日本もまだ駄目です。絵画だつて、演劇だつて、おんなじ芸術です」
・・・
「まあ議論はいゝが、・・・」と、東風はその先の筋書きを知りたがる。


「所へ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心(とうしん)入りの帽子を被つて、透綾(すきや)の羽織に、薩摩飛白(さつまがすり)の尻端折(しりつぱしよ)りの半靴と云ふこしらへで出てくる。
着付けは陸軍の御用達(ごようたし)見た様だけれども俳人だから可成(なるべく)悠々として腹の中では句案に余念のない体(てい)であるかなくつちやいけない。
夫で虚子が花道を行き切つて愈本舞台に懸つた時、不図句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があつて、柳の影で白い女が湯を浴びびて居る、はつと思つて上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまつて女の行水を見下ろして居る。
そこで虚子先生大に俳味に感動したと云ふ思ひ入れが五十秒ばかりあつて、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。
- どうだらう、かう云ふ趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方が余程いゝぜ」と、寒月。

東風は、「あんまり、あつけない様だ。もう少し人情を加味した事件が欲しい様だ」と真面目に答へる。
つぎに迷亭が、「たつたそれ丈で俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか云ふものは消極的で亡国の音(いん)ださうだが、敏君丈あつてうまい事を云つたよ。そんな詰らない物をやつて見給へ。夫こそ上田君から笑はれる許りだ。・・・」批判。

しかし、寒月は、「虚子先生が女に惚れる鳥かなと烏を捕へて女に惚れさした所が大に積極的だらうと思ひます」と反論。
「・・・惚れるとか惚れないとか云ふのは俳人其人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。
然る所あの鳥は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのかうのと云ふ訳ぢやない、必竟自分が惚れて居るんでさあ。
虚子自身が美しい女の行水して居る所を見てはつと思ふ途端にずつと惚れ込んだに相違ないです。
さあ自分が惚れた眼で鳥が枝の上で動きもしないで下を見つめて居るのを見たものだから、はゝあ、あいつも俺と同じく参つてるなと癇違(かんちが)ひをしたのです。癇違ひには相違ないですがそこが文学的で且つ積極的な所なんです。
自分丈感じた事を、断りもなく鳥の上に拡張して知らん顔をして澄して居る所なんぞは、余和積極主義ぢやありませんか。どうです先生」と論拠を述べる。

「なる程名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違ひない。説明丈は積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人は慥(たし)かに消極になるよ。ねえ東風君」と迷亭は東風に向って発言を催促する。
「へえどうも消極過ぎる様に思ひます」と真面目な顔をして答へる。

ここで苦沙弥先生は、局面を展開するために、東風に対して「近頃は傑作」は無いかと、話題を切り替える。

これに応えて、東風は、金田富子に捧げる詩集の稿本を披露するが、苦沙弥先生も迷亭も、「解(げ)しかねる」「少ゝ振ひ過ぎてる」として、一向に感心しない。


寒月は云う。
「・・・十年前の詩界と今日の詩界とは見違へる程発達して居りますから。
此頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んでは到底分り様がないので、作つた本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。
全くインスピレーションで書くので詩人は其の他には何等の貴任もないのです。
註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓(おん)と構ひません。
先達ても私の友人で送籍(そうせき)と云ふ男が一夜といふ短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧(もうろう)として取り留めがつかないので、当人に逢って篤(とく)と主意のある所を糺(たゞ)して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合はないのです。・・・」

「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人。
迷亭は、「馬鹿だよ」と簡単に送籍君を打ち留めた。

東風君は、「送籍は吾々仲間のうちでも取除(とりの)けですが、私の詩もどうか心持ち其気で読んで頂きたいので。・・・」と弁じる。
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「送籍」には、「そうせき」とルビがふられています。

明治25年(1892)4月5日、徴兵猶予の直前に漱石は本籍を北海道に移して徴兵を忌避しています。
「送籍」は、「漱石」の号とこの徴兵忌避のための移籍とをかけていると思われます。

これを以って、漱石はずっと自分のこの徴兵忌避の事実を後ろめたく思っていたことの現れととるかどうか・・・。
多分、本人がそれを気に病んでいたとするなら、わざわざ思い起こさせるようなことをしないだろうとも思えます。
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虚子や上田敏に触れている部分がありますが、これらが彼らの芸術に対する態度への批評なのか皮肉なのかは、よくわかりません。
ただ、これらは仲間内の楽屋ネタであり、辛辣だとか攻撃的だというようなものではないと思います。
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その(六の四)に続く
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