2011年5月21日土曜日

明治7年(1874)5月1日~23日 西郷従道の台湾征討軍、台湾に上陸  植木枝盛(17歳)、土佐で活動開始 [一葉2歳]

明治7年(1874)5月
この月
・森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。一夫一婦制の内実、乱脈を指摘。
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・5~6月頃、大久保利通、「殖産興業に関する建議書」作成。
大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル。
而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルトニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」はましにはなったが、
然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ
その訳は、民の知識が開けていないというより、むしろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りないからだ。
イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工業によって盛大になった。イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大である。
我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきである。
(明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移ってゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギリスを規範としている)  
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「民産国用日ニ減縮スル」:
明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、明治3年の赤字は1,919万円超、4年は若干改善、5年914万円、6年647万円の赤字。輸出品は生糸と茶(輸出の70%以上)くらいしかない。
この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、金銀価格差として日本に押し寄せ、明治7年だけで金貨流出は800万円、翌8年には1,000円に及ぶ。鋳造高の2割を超える額である。
数年前まで政府財政を一手に支えた両替為替商の小野組・島田組は、明治7年末に倒産。
内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建は最重要課題。
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・ドイツ、ビスマルク、第2次「5月法」によりカトリック聖職者に対する弾圧強化。
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・フランス、王政派分裂によりド・ブロイ内閣、辞職。
この月、審議優先権を巡り政府と共和派が対立し、正統王朝派が共和派支持に廻り、政府案は破れ、ド・ブロイ内閣は辞職。
これを機にオルレアン派の中から中道左派と組んで議会多数派を形成していこうというグループも生れ、更に補欠選挙の動向は王政派を一層弱小化へと導く。
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5月1日
・昌平坂書画展開催。万世橋外聖堂(湯島聖堂)
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5月2日
・大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良ら、西郷命により軍艦4隻で出港。
翌3日、大久保利通、長崎着、大隈重信・西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
出兵を是認し激励
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「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠征計画を推進してきており、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令達反で処罰する意思もない。
大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りたる上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」と、「討蕃」終了後も現地占領を継続するとの積極方針までも「御委任の権内を以て裁定」。大久保は積極的な出兵推進者である。
大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためではなく、逡巡する大隈に活をいれ西郷を激励するためであった。
大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」とし、予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめその責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わせたという。
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政府は、各国外交団の干渉に対応するため長崎にいるリゼンドルの至急帰京を要請。西郷はやむなくこれを了承。
長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成。
現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別伍となさず、日本人の内に編入するを要す」、そうすればかれらは日本軍の「配下に帰す」と教示。
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5月2日
・地方長官会議開催の詔書。議院憲法および規則を定める。
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5月3日
・厦門領事陸軍少佐福島九成、厦門着。李総督に出兵通知書伝達。
11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束した日清修好条規違反であり撤兵要求の回答を西郷都督に送る。
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5月3日
・上海仏租界の道路拡張案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突、死傷者がでる。
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5月6日
・「有功丸」、台湾琅橋湾に到着、陣営作成。
7日、陸軍少佐樺山資紀、台湾出兵「日進」艦と合流。以下続々と艦船到着。
22日、「高砂丸」(西郷従道、18日出航)到着。
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5月11日
・清国総署大臣恭親王、台湾は「中国版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発す。
6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参。
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5月11日
・台湾の日本軍、牡丹社の酋長を招致、漂民殺害犯引渡しを求めるが酋長はこれを拒否。
12日以降数度衝突。
17日、偵察中の遠征軍1人、殺害される。
22日、佐久間参謀長の部隊200、激戦の末、四重渓にて牡丹社酋長阿禄親子を斃す。
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5月12日
・地価5年間据置。
地租改正条例第8章(耕地の地租は、改正後5年間は時価の高低にかかわらず新定価額によって徴収する)追加。
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5月12日
・立志社、一般大衆を加えた最初の集会。
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5月15日
・大久保、帰京。
不在中、三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(4月27日任命)に辞表提出。台湾出兵不手際(外国の干渉により中止騒ぎ)、大久保の強引さへの批判。
島津は2人の辞表を執奏せず握りつぶす。
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5月15日
・土佐、帯屋町の立志社で初めての演説討論会。帰郷中の植木枝盛(17)参加。
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○これ以降のこの年の植木枝盛
「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同村各戸に回達して懇ろに其意を示し、更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて一小区の民会を興し、或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
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「日記」には、
「五月十八月 民会に過る。」
「二十二日 民会に過る。」
「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」
「六月五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」
「十六日 民会に過る。」
「二十五日 民会へ過る。」
「七月二日 十二区衆会に過。」
「五日 民会に行。林氏会長となる。」
「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」
「十四日 区会に行く。組合の事を議定す。」
「十五日 民会に行く。堕胎圧死の事を議す。」
「十六日 小民会に行く。」
「二十一日小民会へ過。」
「二十六日小民会へ行。」
「八月十一日小民会へ行 。」
「十三日夜十区民会に過る。」
「十四日区会に過る。」
「十五日民会に行。」
「十六日小民会へ行。」
「十九日民会へ行。」
「二十二日民会へ行。」
「二十六日小民会流会。」
「九月一日民会小へ行。」
「二日民会大へ行。」
「十日集議所に過。」
「十四日区会へ行。」
「十五日区会へ行。」
「二十一日小民会へ行。」
「十月一日中民会へ行。」
「三日集急所へ行。印を押す。」
「十一月一日中民会流れ。」
「五日区会流れ。」とある。
枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばかりでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織を作るのに奔走している。
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民会:
「集議所」と呼ばれる。「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(イモイリ)」によって構成されたという(「高知県史」)。
枝盛の父直枝は57歳なので、枝盛がその代理を務めたと思われる。
枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、「国会論」と題する文章を書いて各戸に配る。
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枝盛の稿本「国会ノ説」によると、国会開設は政体を変革するのではなくそれを確固たらしめるものであり、「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるには「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張している。(天皇制擁護の見地から国会の必要を説く)      
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新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、ことに明治6年11月兵庫県令神田孝平が制定した民会議事章程略の影響が著しい。
明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された諮問機関に過ぎない。
明治7年の高知では町村会は設けられていないので、大小民会が他県の町村会の機能を代行したと考えられる。
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この年、枝盛が読んだ書物は37部(「閲読書日記」)
福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村敬宇「西国立志編」など。
9月7日には「明六雑誌」を購読。
民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ「民選議院集説」を借読。
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翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大体この年にすでに形づくられつつある。
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5月17日
・西郷従道、台湾征討軍の残兵600を率い長崎出港。
19日、柳原前光駐清公使、赴任のため横浜発。
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5月19日
・政府、ようやく台湾出兵を国内に布達。
明治4年11月、琉球藩人民が台湾の「蕃地」に漂着したところ、54名が先住民に殺害された。明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また先住民から暴行略奪をうけた。
そこで、加害先住民を懲罰し、かつ今後のわが人民の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
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5月22日
・西郷都督、台湾南部上陸。
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5月22日
・ヴェルディ「レクイエム」、ミラノ、サン・マルコ教会で初演。
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5月23日
・左大臣島津久光、「反動的内容」の意見書を三条に提出。
礼服・租税制度・兵制を旧に服す。併せて大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫る。
大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしいと申し出て、居直って出仕を拒否。
6月6日、久光、三条・岩倉の説得により意見書撤回。大久保も2週間ぶりに出仕始める。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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