2012年5月8日火曜日

承平5年(935) 紀貫之『土佐日記』成立。 平将門の乱始まる。 承平南海賊、「いまだ平伏せず」。

伊豆 城ヶ崎海岸 2012-04-16
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承平5年(935)
・この頃、紀貫之『土佐日記』成立
延長8年(930)、土佐守として任地に赴き、承平4年(934)末に帰京の途につき、帰京後、『土佐日記』を仮名文で書き綴る。
この頃は、承平南海賊が内海を荒らしている頃で、海賊へのおそれと警戒はたいへんなものである。
彼には次の官職の目当てもなく、権門からの注文は相変わらずの屏風歌の制作であった。
彼は、忠平や実頼・師輔に対して職の斡旋を哀願し、5年目にようやく玄番頭(げんばのかみ)となり、没年に木工権頭(たくみのごんのかみ)に転じ、位はその前年に従五位上にのぼった。
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・高麗が新羅を滅ぼす。
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2月
平将門の乱始まる。
遺領問題で一族と対立し孤立していた平将門、平真樹(まさき)に誘われて、伯父常陸大掾平国香・源護(みなもとのまもる)一族と合戦し勝利。国香や護の子息扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)らを殺害し、彼らの私宅を焼き払う。

2月4日、将門は、野本・石田(茨城県筑西市東石田)・大串(茨城県下妻市大串)・取木などの敵方の営所を焼き討ちし、与力(従類)の小さい家まで、しらみつぶしに焼き巡る。
また、彼らの本拠地は、筑波・真壁・新治郡にあったらしく、将門はこれらの地の伴類の家500余も焼き払う(『歴代皇記』)。

平真樹:
人物の詳細は不明。源護の告発によって、この年12月、将門とともに検非違使へ召還する太政官符が下されているので、彼もまた土着国司もしくは富豪浪人と考えられる。

『和漢合図抜萃(わかんごうずばつすい)』(『続群書類従』30上)では、
「承平五年二月二日、常州石田館において、常陸大掾平国香、相馬小次郎将門と合戦す。時に国香討たれ畢(おわり)ぬ。」
とある。
『和漢合図抜萃』は、山梨県身延山久遠寺所蔵『和漢合図』の抜粋で、成立年代不詳といわれ、あまり高い史料的価値を認められていない(『群書解題』)。この部分でも、「相馬小次郎」など中世以降の表現があり、これまで注目されてこなかった。
しかし、『和漢合図抜萃』には、将門が貞盛の妻に送った歌が見え、明らかに『将門記』を参照していることがわかる。
現存の『将門記』は巻首がなく、承平5年2月に国香が殺されたことはわからないから、『和漢合図』の筆者は、欠失する以前の『将門記』に依拠し、それを後の知識により脚色したと考えられる。
従って、国香が石田営所で没したことは、『将門記』の欠落箇所に含まれていた可能性が高い。
近世の地誌『新編常陸国誌』などでは、同書を根拠に石田を国香終焉の地と考定している。

常陸大掾源護(みなもとのまもる):
家系は不明。源氏で一字名でり、嵯峨源氏の可能性もある。
子供に、扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)のほか女性も複数いたようである。
常陸国筑波・真壁・新治(にいはり)郡地域を本拠とした土着国司で、平氏一族とは、護の娘を通して関わり合った(平国香・良兼・良正らと護の娘が婚姻関係にあった)。
護は、将門が彼の伯父たちと一族内で争いを起こすきっかけをつくった。
『将門記』が良正について、「偏に外縁の慾に就きて、卒に内親の道を忘れぬ」(姻戚関係を血族よりも大事にした)と指摘し、平氏一族の結束はそれほど強くなかったことが窺える。

この頃 平貞盛、父・平国香戦死の報に接し故郷に帰還。実母と共に亡父を弔う(『将門記』)。
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4月27日
・「祈雨」のため諸社に奉幣する(『扶桑略記』)。
5月4日、百僧を大極殿に請して降雨を祈念させる(『日本紀略』『扶桑略記』)。
6月6日、晩に「雷鳴」および雨あり(『本朝世紀』)。
6月7日、晩に「雷鳴」あり(『本朝世紀』)。
6月9日、晩に「雷少鳴」および小雨あり(『本朝世紀』)。
6月15日、晩景に「雷」雨あり(『本朝世紀』)。
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6月
承平南海賊、「いまだ平伏せず」

6月21日、「海賊」平伏の祈祷のため、臨時の「幣帛使」を11社へ発遣(『本朝世紀』)。
6月28日、「海賊」攘除祈念のために諸社へ臨時の奉幣使を発遣(『本朝世紀』)。
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9月1日
・小野惟幹(「左衛門少尉」)・府生忠宗ら、「群盗」13名を捕縛した功績を内蔵寮に報告し、絹の御服を下賜される(『扶桑略記』)。
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10月21日
川曲(かわわ)村の合戦
平将門、常陸国新治郡川曲(かわわ)村(茨城県結城郡八千代町)に向かい、姻縁により源護に加勢した伯父良正と戦う。
将門が勝利。射殺した者60、逃げ隠れた者は数を知らないという有様。
22日、将門、本拠地の鎌輪宿に帰還。

この頃 平良正、源護一族と姻戚関係にある平氏一族の長的な立場にあった平良兼に平将門攻撃の助勢を依頼(『将門記』)。
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12月29日
・源護の告発により、平将門・平真樹を都の検非違使庁に召還する太政官符が出る。翌承平6年9月7日に将門の許にもたらされる。
(官符が出された日付の誤りか?)
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