鎌倉 建長寺 2012-04-28
*承平6年(936)
6月26日
・平将門との戦いに良兼が参戦
川曲村の合戦に負けた良正は、長兄の下総介良兼(良将・国香没後、一族の長になっている)を訪れ、合力を依頼。良兼は、護の依頼もあって将門との対決を決意。
承平6年6月26日、上総国に居を構えていた良兼は、上総国武射(むざ)郡を通って、下総国香取郡神前(こうざき)に着き、その渡場から常陸国信太郡えさきの津に向い、明朝、水守(みもり)の営所(源護の居館、平良正の住居)に到着。
神前は、現在の千葉県香取郡神崎町で、利根川に半島状に突き出た所に、神崎神社が鎮座している。この場所で香取の海が一番狭くなっていたために、古代以降、津(河湊)として、下総国と常陸国を結ぶ水上交通の要衝であった。
えさきの津は、『常陸国風土記』にみえる榎浦の津もしくはこの近辺と推定され、現在の茨城県稲敷市江戸崎町に比定されている。
水守宮所は、現在の茨城県つくば市水守に当たり、国香もしくは良正の有力な本拠があった。古代以来の交通の要衝。後に、貞盛の子孫がこの地近くの多気に土着し、常陸大掾家を興す。その富豪な有様は説話化され、多気大夫(たけだいぶ)として、『宇治拾遺物語』にみることができる。
水守の営所に到着した良兼に、良正は加勢を頼み、また、貞盛(平国香の子)とも対面。
良兼は平将門と和睦した平貞盛を批判し、貞盛も両人の説得により合力を約し、揃って下野国へ軍勢を進めた。貞盛は「人口(じんこう)の甘きにより、本意に非ず」、つまり人の甘言にのせられやすく、本心ではなかったという。
これに対し、将門も緊急の知らせを受けると、7月26日、兵100騎ばかりをつれて下野国に向かった。この数から、将門の従類の数を知ることができる。常に徴発できる従類の数はそれほど多くない。
良兼勢は、盾を並べて将門を待っていたが、将門は、自身の到着前に、歩兵を派遣して合戦させ、80人ほどを射取った。当時の戦隊は、前陣・後陣など複数に分けて進軍したが、本隊の到着前に先鋒が合戦に及んだ。
兵の数が騎兵で表された場合には、それに数倍する歩兵が存在している。騎兵1人に数人の歩兵が騎兵を護るように取り囲んでいた。歩兵や歩射の重要性がわかる。
良兼は逃亡し、将門はこれを追跡し、下野国府(栃木県栃木市)に追い詰めた。
将門は、良兼は宿敵ではなく、血筋も近い関係にあり、殺害しては人々の誹りを受けるだけだと考え、国庁(こくちよう、国府で政務をとる建物)を囲んでいた西の陣を解き、良兼を逃がした。
将門は、国府に対して敵愾心はないものの、下総介を追い詰め、下野国の国庁を囲んだため、謀反の疑いをかけられかねない。
そこで、嫌疑をかけられた場合の証拠文書として、この戦いが良兼により仕掛けられたものであることを、下野国司に文書で証明してもらい、将門は本拠に引き上げた。
(このとき将門は国衙官人に、良兼が「無道の合戦」をしかけたことを国庁日記(国衙の政務日誌か)に記させた。)
翌27日、将門は、本拠地である鎌輪宿に帰還。
平貞盛:
平国香の子。国香が将門と合戦した時は、都で左馬寮(さめりよう)の允(じよう、三等官)として勤務していた。馬寮とは、毎年諸国から貢上される馬を飼育・調教する官司で、10世紀頃には、都の治安維持を担当する場合もあった。「もののふ」が仕える役所としては申し分ないものであった。
当時の土着国司の子弟は、将門や貞盛のように、都に出仕し、しかるべき上級貴族と主従関係を結び、位階・官職を手に入れるのが一般的であった。
将門がそれらを手に入れずに帰郷したのに対し、貞盛は順調に出世していた。『将門記』を読むかぎり、将門は武勇については並ぶ者がいなかったものの、都のような複雑な社会には不向きな人物であり、一方の貞盛は、将門よりもはるかに都での生活に適した人物として描かれている。
帰郷した貞盛は、父が将門との合戦で没したことを知り、父の一周忌の法要を営む。
貞盛は、将門は本来の敵ではなく、源護との関係の上(姻戚関係)での敵だと考え、敵愾心のないことを将門に伝え、対面しようとしたが、この望みは叶わなかった。
ただ、父国香戦死の報を聞いて急遽帰国するが、在京勤務を続けるために、将門から亡父遺領の保全の約束をとりつけて和睦していた、との説もある。
貞盛の子孫が、伊勢国に移住して平清盛につながり、常陸国では常陸大掾氏となる。
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7月
・故藤原時平の長男大納言保忠が病没。この血脈に暗影が濃くなる。
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8月
・藤原忠平が太政大臣となる。摂政はそのまま保持。
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9月7日
・平将門・平真樹を都の検非違使庁に召還する太政官符(前年12月29日付け)が、左近衛府の番長英保純行(つがいのおさあほのともゆき)・英保氏立(うじたち)・宇目加友興(うじかのともおき)らによってもたらされた。
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10月17日
・平将門・平真樹、告発した源護よりもはやく上京し、検非違使庁で尋問される。
国香らによる遺領奪取の意図や良兼らの無道合戦などの主張が認められたのか、罪は軽く、かえって彼の武名が京畿内で評判になった。
暫く拘束されるが、翌年正月7日付で朱雀天皇の元服による恩赦となる。5月1日、都を離れ帰国。
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