東京 北の丸公園 2012-07-24
*元亀2年(1571)
3月
この月
・上杉謙信、神保長職の要請に応えて一向一揆・椎名康胤を討つため越中出陣、諸城を攻略するも庄川の増水で守山城、湯山城攻めを断念。20日帰国。
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3月1日
・暁、奈良周辺に地震・大神動(「多聞院日記」2)。
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3月2日
・武田勢2万、高天神城(小笠原長忠)2千を攻撃。伊那に引上げる。
17日、信玄、秋山信友に命じ大嶋城を普請させる。
26日、信玄、信濃高遠城より伊奈口を経て三河に侵入。
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3月7日
・山科言経、参議昇進の勅許を受ける(「言継卿記」4)。
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3月9日
・剣客塚原卜伝(83)、没。
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3月11日
・松永久秀、奈良中へ「花盛」ではあるが花見を厳禁する旨を通達(「多聞院日記」2)。
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3月14日
・トランシルヴァニア候ヤーノシュ・ジグモント、没。バートリ・イシュトヴァーン、即位。
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3月13日
・信玄の弟・松尾信是、病没。
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3月19日
・吉川元春、高瀬城を陥れる。
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3月19日
・松永久秀、大和国奈良中の花が「落花」したが花見および山木を折り取ることを禁止する旨を通達。
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4月
この月
・武田信玄、高天神城攻めを内藤昌豊に任せ、信濃高遠へ引上げ。
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・宇喜多方尼子式部、経山城(総社市黒尾、城主中島大炊介元行)攻撃、敗退。
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4月11日
・信長、小早川隆景へ、毛利元就・毛利輝元からの詳細な報告を賞し、畿内及び信長「分国」の状況は近江国が「属平均」したと通知。丹後・但馬の土豪が尼子勝久に味方し、出雲・伯耆沿岸を掠奪している件で義昭「御下知」の要請に応える(「小早川家文書」1)。
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4月15日
・武田軍先手(信濃飯田城代秋山虎繁を主体とする下伊那衆)、伊那口から遠江に侵入、三河に進み足助城(豊田市)を攻略。
19日、信玄、足助城主鈴木重直父子を助命し武田領国に送還(「孕石文書」)。下伊奈衆下条信氏が足助城を預かる。
19日、信玄、駿府に武田信光、遠州乾に穴山梅雪を布陣し、勝頼と共に三河乱入。
徳川方7城(足助城、浅賀井、阿須利、八桑砦、野田城など)奇襲攻撃、開城。
20日、三河吉田城(豊橋市)攻撃。甲斐に引上げ。
29日、信玄1万数千、二連木で家康軍8千(酒井忠治次)と交戦。家康、退却し、三河吉田城に籠城。
28日付武田勝頼の越中一向宗の杉浦紀伊守宛ての書簡。
守備「堅固之仕置」と「対大坂忠節」を賞し、「この上、三・尾国中に乱入して、是非を決す」(武田軍の三河足助城攻略や今後の軍事作戦遂行予定などを通知)(「武家事紀」)。
勝頼はこの時期、甲府に戻され、出陣中の信玄に代わって種々指令を出す。
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4月15日
・北条氏康、上杉謙信に宛てて6ヶ条の現況報告。
「相甲一和」は虚言であり信用しないでほしい、「豆相境目普請の仕置」を堅固にした、秋には信玄が上野に出張するので西上野か信濃に後詰をお願いしたい、など。
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4月21日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ息子ピエロ・デ・メディチ(19)とドンナ・エレオノーラ・デ・トレード(17、フィレンツェ大公妃エレオノーラ姪、エレオノーラ兄ドン・ガルシア・デ・トレード妾腹の子)と結婚。
ピエロの乱行のため、ドンナ・エレオノーラ、宮廷付侍臣ベルナルディーノ・デッランティーノ中尉と不倫。
ベルナルディーノはエルバ島流刑。エレオノーラは軟禁。
その後の相互連絡も露見、ベルナルディーノは処刑(1576/6/10)。エレオノーラはピエロにより殺害(1576/6/20.)。
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