2012年8月18日土曜日

永延元年(987)12月16日 藤原道長、源雅信の娘倫子と結婚。純婿取婚の形式(1)。

京都 京都御苑 2012-08-16
*
永延元年(987)
12月16日
・藤原道長(22、三位少将、翌年には権中納言)、左大臣従一位源雅信(宇多源氏)の娘倫子(24、りんし)と結婚。
父兼家の代とは異なり、純婿取婚の形式が確立している。
(純婿取婚の時代の家族のあり方、継承に仕方、摂関政治の成立基盤)

■純婿取婚
女の一家が男を婿として引き入れる形式が一層強化されて、男が一定の女のもとに住みつき、夫妻同居が普通になってくる。
夫婦生活でも男は今までより多く経済的にも尽力し、前半は妻の一家に生活を支えてもらうが、後半は夫婦の共同責任のような形で生活をいとなみ、父としても世帯主の立場でいろいろ取りしきることになる。
男の子は他家に婿として出て行くが、女の子は家に残って婿を迎え、生まれた孫の養育は、第一に外祖父母の責任となる。
天皇の場合は、妻の家には通わず、内裏内の一殿舎(桐壷、藤壷など)を準備してそこに妻を迎える(入内)。しかし婚姻の本質は変わらず、天皇の世話は妻方の両親が面倒をみる。
ここに、一条天皇に入内した彰子の父道長のように、天皇の妻の父親が外戚として、天皇の後見として大きなカをもつ社会構造がある。

■道長の結婚生活
道長の妻倫子は妹の中の君とともに、父源雅信が心をこめて養育し、ゆくゆくは后にもと思った娘であったが、一条天皇も、居貞親王もまだ少年だし、さりとて手ごろな公卿の子弟もいないしという状態だったところへ、道長が倫子に熱を上げてきた。
道長はこの時、父兼家が前年摂政になったとはいえ、年初にはまだ従四位上左少将、9月に従三位左京大夫になってやっと公卿の仲間入りをしたばかり(但し、翌年には権中納言に躍進)。そのうえ、四男で、倫子より年下ということで、雅信はなに若僧が「あなもの狂ほし」と問題にしなかった。

しかし雅信の妻、倫子の母の藤原穆子(ぼくし)は道長を推奨。
彼女は土御門中納言藤原朝忠の娘。彼女は、賀茂祭などの行列を見物するときに道長も見かけて知っているが、あの若者はただ者ではないといい、夫の雅信を説き伏せて永延元年12月16日、結婚式を挙げてしまった。
重々しい華美な婚儀であると、『栄花物語』「さまざまのよろこび」が伝える。倫子の親は道長を婿として至れり尽くせりの待遇をしたので、父兼家などは、まだ若僧なのに心苦しいことと思ったという。道長は大喜びで、道長と倫子の仲は終生続く。

時姫のもとで育った道長は、妻倫子が親の雅信夫妻とともに住む土御門邸に通ったが、翌年に長女の彰子の誕生をみたころから、土御門第に移り住んだようで、その後道長夫妻はこの土御門邸を中心に殆ど一緒に生活した。

両親の方が一条第に出て行き(穆子は一条尼と称される)、道長は、源雅信から娘とともに土御門第も譲られ、倫子とほぼ40年間住むことになる。
穆子の父の藤原朝忠を土御門中納言というところを見ると、倫子の父雅信も、がんらい朝忠の邸だった土御門邸を娘の穆子の婿として譲られたと思われる。

この土御門邸は上東門邸とも京極邸ともいわれる名邸宅で、道長からその娘の彰子に譲られた。彰子がのちに女院となったとき、上東門院と号したのもこのためである。
とにかく道長はこうして土御門邸に住みついて、夫妻同居の生活を送り、翌年には長女の彰子が生まれた。
土御門第は、長女彰子が一条天皇の女御・中宮となってからはその里第となった。
*
*

0 件のコメント: