東京 北の丸公園 2012-08-04
*寛和2年(986)
10月10日
・藤原公任の三舟の才の故事
『大鏡』が伝える藤原公任の才能を示す説話。
ある年道長が大井川で舟遊びをして、作文(漢詩)の舟・管絃の舟・和歌の舟を作り、その道に堪能な人を乗せて、競演させた。
公任はいずれにも堪能だったので、どの舟に乗るか注目を集め、結局和歌の舟に乗り見事な和歌を詠んだというもの。
公任はあとで、「作文の舟に乗ればよかった。そこで秀作を作ればもっと名声があがったのに。道長にわざわざ尋ねられたので、いい気になってしまった」と後悔したという。
当時の貴族社会では、漢詩が公的で格が上だったことがわかる。
『大鏡』の三舟の才の場面で読んだとされる公任の代表作
「朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき」
散りかかる紅葉を錦の衣に見たてた、イメージの鮮やかな平明な歌である。
但し、詞書には法輪寺参詣のおりに嵐山で読んだとあり、道長主催の舟遊びの歌ではないらしい。
『大鏡』の話は説話だが、三舟の遊は実際にあった。
この年、寛和2年(986)10月10日、円融法皇が大井川に紅葉狩に出かけたおり、三艘の船を浮かべ、藤原公任と源相方(重信の子)が三つの舟すべてに乗り、詩・歌・管絃に才能を示した。
これが「三舟の才」で、当時の貴族の理想像だった。
院政期初期の多才な公卿として名高い源経信にも、白河天皇の大井川行幸の折に三舟に乗ったという説話が『古今著聞集』に伝えられている。
わざわざ遅れてやってきて、どの舟でもかまわないから乗せろといって乗ったという話。
藤原公任:
康保3年(966)生まれ。翌年冷泉天皇即位とともに、祖父実頼は摂政太政大臣となる。公任の父頼忠は、実頼の次男であるが、長兄の敦敏が36歳で没したこともあり、小野宮流の後継者となり、円融・花山2代にわたり関白太政大臣をつとめた。
公任は、この頼忠の長男で小野宮流の直系(藤原佐理・実資はともに従兄弟)。
従って公任の出世は、ある段階までは極めて順調。
天元3年(980)2月、15歳で元服。式は清涼殿で行なわれ天皇自ら加冠。同時に正五位下に叙せられ、昇殿が許され、同年侍従に任命される。翌年、翌々年と加階され従四位上、翌永観元年(983)に左近衛権中将、寛和元年(985)には20歳で正四位下となり、侍従-中将-公卿という当時の高級貴族子弟の典型的な出世コースを昇りつつあった。
花山天皇退位がなければ、すぐにも公卿であったが、一条天皇即位とともに師輔の子孫の九条流へ政権が移り、父頼忠も没し、出世のスピードが落ちる。
とはいえ、永祚元年(989)に蔵人頭(頭中将)、3年後に参議となる。
以後、道長政権下では順調に官位を上げ、寛弘6年(1009)に権大納言となり、権大納言を極官として後一条天皇の万寿元年に59歳で致仕(ちし)するまで、32年間公卿の一員であった。
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寛和3年/永延元年(987)
この頃
・寛和3年(987)頃、平貞盛の弟繁盛(しげもり)が、延暦寺に「大般若経」を寄進するために上洛する途中、叔父村岡五郎良文の子、「旧敵」陸奥介平忠頼(ただより)・忠光(ただみつ)兄弟に妨害され、繁盛は戦うために上洛を断念しかけた。
この後、繁盛と忠頼兄弟の敵対関係は、繁盛の子で常陸を拠点とする維幹と、忠頼の子で上総を拠点に反乱を起こした忠常との敵対関係に受け継がれていく。
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・この年、慶滋保胤『日本往生極楽記』が成立
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2月
・奝然が帰国し、この月に入京し、仏像・経論などをもたらす。
この日付け『小右記』は、摺本一切経と釈迦像を北野の蓮台寺に運びおくにあたり、人々が道路で結縁になろうと争って担って、興奮を呼んだと記している。
奝然は、愛宕山に五台山大清涼寺を建立することを申請して、準備を進めたが、在世中に実現せず、遺弟の盛算が嵯峨の棲霞(せいか)寺に釈迦堂を建立した。
『御堂関白記』寛仁2年(1018)正月に「栖霞寺一切経を渡し奉る、これ故法橋奝然、唐より持ち渡る経なり、而して遺弟献ずるなり」と、道長が宋版一切経を手に入れたことがみえ、釈迦堂の造営に道長の関与があったことも推測される。
棲霞寺は五台山清涼寺と称されたが、これは聖地五台山を日本に移したものであり、清涼寺という名称は五台山最古の名刺の名によっている。
清涼寺には、国宝の十六羅漢図もあるが、北宋羅漢図の唯一の遺品であり、奝然がもたらしたと考えられる。
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4月
・永延に改元。
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