東京 北の丸公園 2012-08-24
*永祚2年/正暦元年(990)
1月5日
・一条天皇(11)、元服。
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1月25日
・内大臣道隆の娘の定子(15)が入内し、2月11日、女御となる
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5月8日
・兼家が病のため摂政太政大臣を辞任し関白となり、すぐに内大臣藤原道隆に関白を譲る。
関白道隆を摂政とする。
道隆は、大和守高階成忠の娘で、女官で典侍(ないしのすけ)を勤めていた貴子(きし)を妻にして伊周(これちか)・隆家などの男子、定子(ていし)という女子を得て、父兼家と同じく自分の子や妻の一族をどんどん昇進させた。
伊周は19歳で権大納言、21歳では内大臣に昇って道長の上に立つという新記録を作った。
一方、娘の定子は一条天皇より4歳年長であったが、後宮に入り、15歳のとき、中宮(皇后と同じ)に立った。そのときはまだ皇子は生まれなかったが、内外ともに道隆の地位は固まっていった。
『大鏡』によると、道兼(花山天皇退位の立役者)はこれを不満として、父兼家の喪にも服さなかったという。
こうした空気を反映した、『古事談』(鎌倉時代の説話集)の頼信にまつわる逸話。
町尻殿こと藤原道兼の家人であった弟頼信が、「我が君のおんために中関白(なかのかんぱく、道隆)を殺すべし。我、剣戟(けんげき)を取りて走り人らは、誰人か之を防禦せんや」と語ったところ、兄頼光は驚いてこれを制止し、制止の理由を三つ挙げた。
すなわち、
「一つには、殺し得る事極めて不定なり。二つには、たとひ殺し得るといヘども、その悪事によりて主君、関白となる事不定なり。三つには、たとひ関白となるといヘども、一生の間隙なく主君を守る事また不定なり」。
血気にはやる頼信と、冷静な兄頼光の姿を対照的に描いた説話
頼信は23歳、兄頼光はその20歳年長。頼光の母は弁官などをつとめた能吏、源俊の娘であるのに対し、頼信の母は藤原致忠(むねただ)の娘。致忠自身、殺人事件を起こしたし、その息子には武芸に優れた保昌や、大盗賊袴垂(はかまだれ)として知られる保輔がいた。
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7月2日
・藤原兼家(62)歿。
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10月15日
・円融中宮遵子を皇后とし、道隆の娘で一条女御定子を中宮とする。
道長が中宮大夫よなる。
皇后と中宮が並立する初例。
元来、中宮は皇后の別称であったのが、皇后と中宮が別の地位となったのはこの時が初めてである。
中宮は、律令法では太皇太后・皇太后・皇后の三后の総称であるが、平安中期には皇后に対して中宮職(ちゆうぐうしき)をおき、皇后を中宮と呼んでいた。
この場合、定子を皇后に立てたことになるが、現に皇后には頼忠の娘遵子(円融上皇の后)がおり、これを皇太后にくり上げようにも、皇太后には詮子(円融女御、一条生母)、太皇太后には昌子内親王(冷泉后)がいてできなかった。
そこで遵子の皇后号はそのままで、仕える役所である中宮職を皇后官職とあらため、定子中宮に仕える役所として中宮職(長官である中宮大夫は道長)をおくことにした。三后でなく四后が並び立つというかなりの無理を行なった。
のちに道長が定子がいるのに娘彰子を中宮にしたのはこのさらに延長である。
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11月
・正暦に改元。
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