2012年8月28日火曜日

正暦2年(991)~正暦4年(993) 道長、兄道隆-伊周父子(中関白家)の後塵を拝す

東京 北の丸公園 2012-08-24
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正暦2年(991)
この年
・道隆は内大臣を辞し、父兼家の時と同じように摂政だけとなり、摂政という官職の制度化が進んでいく。
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2月
・円融法皇、没
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5月
・藤原佐理「離洛帖」を記す
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9月7日
・道兼が内大臣、道長が権大納言、伊周(18)が権中納言となる。
(伊周は、その後、21歳で内大臣となった。)
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9月16日
・円融皇太后詮子、出家して東三条院となる(女院の初例)。

出家後も皇太后官職をとどめ、東三条院として、太上(だいじよう)天皇の例にならって院分受領という受領の推挙権を与えられ、女院の制が開かれた。
出家の理由は病気だが、政治的には円融院の家父長としての権威を継承して制度化したものといえる。
詮子が東三条院という院号になったのは、東三条殿を父兼家から譲られ、自分の里第としていたから。
東三条殿は兼家死後、長男道隆が伝領したが、出家した東三条院は11月に内裏の職曹司(しきぞうし)から退出すると東三条殿でなく弟大納言道長の土御門第へ移り住んだ
この微妙な人間関係がこのあとの政治史の伏線となる。
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正暦3年(992)
この年
花山法皇、出家後、播磨の書写山に参詣、比叡山・熊野など各地で修行を重ねて、この頃に帰京。
仏道修行だけでなく、和歌の名手としても知られ、『後拾遺和歌集』の序に「花山法王は先の二つの集に入らざる歌を採り拾ひて拾遺集となづけ給へり」とあるように、古来『拾遺和歌集』撰進に深く関わったとされる。
また、『大鏡』(12世紀初めに成立した歴史物語)によると「風流者」として、和歌だけでなく、絵画・建築・工芸・造園などにも非凡な才能を示した。
『拾遺和歌集』の中には、勅撰和歌集としては初めて連歌が収録されているが、それは花山法皇の意向が強かった可能性があるという。
過酷な仏道修行から帰京後、東院(花山院)の「九の御方」という女性のもとに住み、乳母の中務とその娘をともに寵愛するなど、色好みの名をほしいままにした。
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正暦4年(993)
この年
清少納言は中宮定子(17歳)に仕えるようになったとされる。
以後、長保2年(1000)、定子が25歳で没するまで10年近くの宮仕えに、彼女は存分に自分の才能を誇示し、生活を楽しんだ。
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1月1日
・この年の朝賀が最後の朝賀の儀となる。
摂関期には、朝賀が小朝拝へと変化するように、儀式の上からも、天皇との私的関係で成立している摂関・殿上人・蔵人の方が律令官僚制より重要な意味をもつようになっていく。
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1月22日
・内裏仁寿殿(じじゆうでん)で内宴が行なわれた時、大納言伊周が大臣の座の傍らに坐り、さすがに道隆が注意して、長押の下の座に退かせたと『小右記』は伝える。
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4月
・一条天皇が14歳になったため、摂政道隆が摂政を辞し関白となる
(長徳元年43歳で病没するまで5年間権力を掌握)
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5月
・菅原道真は、都で天変地異や疫病が流行するたびに御霊として恐れられ、官位・官職を追贈された。
この月、正一位左大臣になり、同年閏10月には正一位太政大臣が贈られる。
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7月29日
・源雅信(源倫子父、74歳)、歿。
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8月
・慈覚大師(円仁)門徒と智証大師(円珍)門徒が争い、智証門徒は延暦寺を下り、園城寺に入る。
天台宗が山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂する。
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9月
・この年の秋、疱瘡が多少の流行を見せ、一条天皇も罹病。
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