東京 北の丸公園 2012-08-24
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(35)
「二十三 「つゆのあとさき」のころ」(その2)
荷風は、この新しい女たちを芸者に比べて質が悪いと云う。
昭和2年年9月17日
「カツフヱーの女給仕入と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや同じ泥水家業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし」
しかし、新しい風俗現象に敏感な荷風は、女給への好奇心を捨てきれない。
大正15年秋ころから足繁く、銀座のカフェーに通うようになり、昭和2年にはタイガーの女給お久と喜劇じみたトラブルを起こし、警察沙汰にもなっている。
「江戸趣味の荷風が、同時に、カフェーという新しい遊び場に興味を示しているのは、何度も指摘しているように、古さと新しさの両方に興味を持った荷風の都市生活者としての二重性のあらわれである。「つゆのあとさき」が、この銀座通いから生まれたことはいうまでもない。」(川本)
「つゆのあとさき」脱稿は「日乗」昭和6年5月22日。
「雨、小説の稿を脱す、仮に夏の草と題す」。
その年の「中央公論」10月号に発表されたとき「つゆのあとさき」と正式に題される。
この小説を書くために荷風は銀座のカフェーに通い、女給たちの生活を観察。
昭和2年1月1日
「風なく寒気烈しからざるを幸銀座に往き太牙楼に登り見るに酔客雑沓空席殆無し、盖新春三ケ日の間銀座表適の酒肆にして客を迎る處の太牙のみなればなるべし」
昭和2年1月8日
「夜銀座太牙楼に赴き日高生田成彌に会ふ、婢阿春阿智慧の二女を伴ひ汁粉屋梅月に憩ひ二女に祝儀を與へ別れて獨り家に帰る」
昭和2年5月24日
「銀座一丁目東側に黒猫といふカツフヱー本日開店す、巴里のChat-noirと云ふ酒肆の名を取りたるものなるべし、太牙の婢操信の二女を伴ひて赴き見たり、以前太牙に働きゐたる女二人雇はれゐたり、建築の様式は新橋演舞場に似たるものなり、料理は言ふに足らず」
千住小塚原あたりの貧家の娘が、浅草公園の牛肉屋の女中から始まり、一、二カ所カフェーを稼ぎ回ったあとタイガーの女給となり、さらにそのあと洋行帰りの日本人の妾になるなどして資本を作り、ついに銀座にカフェーを開いたという話も書きとめている。
昭和4年4月14日
「以前なれば浅草邊に生れたる貧家の女は、藝娼妓になりても迷信にとらはれ神信心などするが例なり、然るに今は日本人よりも西洋人を好み活動写真にて見たる西洋私娼の生活をそのまゝ實行せむとするに至れり、時勢の變化唯驚くの外はなし」
女給という、旧来の芸娼妓とは異るモダンな町の女の登場に驚いている。
そして批判しながらも彼女たちの生態に惹かれていく。
昭和4年5月12日
「晴れて穏なる日なり、晡下葵山子来る、お歌亦来る、相携へて銀座に往き、銀座食堂に飯して後その邊のカツフヱーを巡視すること両三軒なり、邪奔(シヤボン)と呼ぶ家にて偶然お百合といふ女給に逢ふ、震災前台湾喫茶店に雇はれゐたるものにて年は早や三十に近かるべし、赤縞大柄の衣服着て白粉厚く塗たる姿以前よりも却て若く見ゆる程なり」
昭和4年6月25日
「夜お歌を伴ひ銀座を歩む、三丁目の角に蓄音機を売る店あり、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎とやらいふ流行唄の曲なり、この頃都下到處のカツフヱーを始め山の手邊の色町いづこと云はずこの唄大に流行す、其他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず、歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、廣い東京恋故せまいといふが如きものゝみなり」
昭和4年12月25日
銀座のカフェーに行ったとき「附近のカツフヱーを歴訪し年末の景況を視察して締る」と書いていて、このころから荷風はカフェーを小説の舞台にしようと思い始める。
広津和郎が、銀座のカフェーの女給をモデルに「女給」を「婦人公論」に連載したのは昭和五年。
この「女給」のモデルになった女を見に行く。
昭和6年3月6日
「晴れて暖なり、午前執筆、午後中洲に往く、銀座大訝に一茶し、銀座食堂に飯す、街上にて偶然葵山子に逢ひ再び太訝に飲む、電話にて小星を招ぐ、杵屋宇太郎同孝蔵に逢ふ、一同黒猫亭に赴き女給小夜子なるものを見る、廣津和郎作小説女給の主人公なる由にて目下銀座邊にて専噂高きものゝ由、黒猫店口に當店に女給小夜子在りとかきたる看板を出し、楽隊にて囃し立てるさま、宛然縁日の見世物小屋なり、當世人の悪趣味實に窮極する所を知らず」
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