東京 北の丸公園 2012-08-03
*寛和2年(986)
3月
・京中の物価沽価を定める。
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4月22日
・慶滋保胤、この日、一切を捨てて出家入道し、寂心と号す。叡山横川に上つて修行し、また諸国を巡り、源信とも交渉があった。
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5月
・『往生要集』完成の翌年のこの月、横川で念仏結社二十五三昧会(にじゆうござんまいえ)が発足。
『往生要集』の念仏理念を実践したもので、当初は横川の僧25人で結ばれたが、やがて慶滋保胤、花山法皇、源信が入会する。
尚、この年、源信は『往生要集』を宋に送っている。
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6月
・兼家の陰謀により花山天皇(19歳)が譲位し出家。
懐仁親王が受禅。
一条天皇が即位すると、外祖父である兼家(右大臣)が摂政となり、頼忠は関白を辞す。
■兼家の陰謀:
兼家の子道兼が、言葉巧みに天皇を清涼殿から連れ出して出家させ、道兼の兄道隆・道綱が神璽と宝剣を密かに東宮懐仁のもとに移してしまう。
花山天皇には数人の女御がいたが、特に弘徽殿の女御と言われた大納言藤原為光(兼家の異母弟)の娘忯子(しし)を寵愛していた。彼女は、懐妊して内裏から退出したのち、前年の寛和元年(985)7月に没してしまう。
花山はこれを悲しみ、出家の意志をもったようだ。
これを知った兼家は、孫の懐仁親王を即位させるため、四男道兼(蔵人、天皇近く仕えていた)に、出家して女御の菩提を弔うことを勧めさせた。
道兼も共に出家するというので天皇も決心した。
6月23日深更、道兼は天皇を清涼殿から連れ出し、山科の元慶寺に向かわせる。
途中鴨川にさしかかる辺りでは、源満仲率いる武士が前後を固め妨害を防いだ。
この間、天皇が内裏から出ると、兼家は子息の道隆、道綱をして清涼殿にある神璽・宝剣を皇太子懐仁のいる凝花合に移させ宮中の諸門を閉じさせた。
一方、道兼は、父兼家に最後に姿を見せたいといって、天皇を裏切って出家せずに帰ってしまう。
権中納言義懐(伊尹の子)・蔵人権中弁惟成が気付いた時には既に遅く、2人は潔く出家してしまう。
花山は出家の後、熊野をはじめ各地で修行を重ね、数年後に帰京。
また、風流人として有名で、調度品や邸宅に工夫を凝らし人々の賞賛を博した。
和歌の上手でもあり、古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集も花山法皇の撰にかかるという説もある。
退位後22年、寛弘5(1008)に41歳で没。
花山は22年間、法皇でありながら、完全に政治権力の圏外に置かれた。
一条天皇を即位させた段階で、天皇の外祖父である兼家と、天皇の父院である円融上皇は、ミウチ(限られた親類縁者)という共通の政治的基盤を優先した。
摂関政治は、天皇のミウチ(天皇、外戚、父院、国母(天皇の母)など)が権力の中枢を掌握する体制であるが、円融は完全に組み込まれ、花山は彼の父冷泉同様に排除された。
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7月5日
・円融女御であった藤原詮子(一条天皇生母、兼家の娘)を皇太后とする。
(藤原遵子が円融皇后、冷泉の皇太后昌子内親王は太皇太后に転じた)
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7月16日
・居貞(いやさだ、冷泉天皇と兼家の娘超子ちようしの間に生まれた冷泉の第二皇子)親王の元服式を兼家の両院邸で行い、同日、皇太子とする。
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7月22日
・懐仁親王(7)が即位(一条天皇)。
外祖父兼家が摂政となる(兼家は天皇・皇太子の外祖父)。
しかしこの時、右大臣兼家の上席に、太政大臣藤原頼忠と、宇多天皇孫にあたる左大臣源雅信がいた。
(これまでの場合、摂政右大臣伊尹の上席にいた左大臣藤原在衡は高齢ですぐ没し、殆どの摂関は太政大臣になっていた。)
しかし兼家の場合、太政大臣のポストは空いていなかったので、1ヶ月で右大臣を辞任して、大臣の序列から離脱した。それに対して兼家に「准三宮(じゆさんぐう)の詔」を下し(太皇太后・皇太后・皇后に待遇を准ずる)、さらに、摂政は三公(太政大臣・左右大臣)より重いので、座を三公の上とする「一座宣旨(いちざぜんじ)」を下し、兼家の摂政を位置づけた。
■兼家の摂政就任が、摂関地位にもたらした変化
①摂政・関白は、従来は大臣を本官とするポストだったが、律令官職を超越した最高独自の地位となった。兼家の例は後で「寛和の例」として規範とされた。
②摂関と太政大臣とが分離した。これまでは太政大臣は摂関のみであったが、以後、太政大臣は実質的権力と一致せず、長老や天皇の外戚の人を処遇するための名誉職的な色彩が強くなった。
③摂関と藤原氏の氏長者が一体のものになった。
■兼家一族の官位の引き上げ
兼家の長男道隆(34)は、一条即位直前には、非参議の従三位右近衛中将昇進する。
詮子が皇太后となった7月5日に、その兄弟ということで、参議をへず権中納言となり、皇太后宮大夫を兼ねる。
9日には詮子が内裏に参入した賞として正三位、居貞立太子の16日に中将をやめ、20日に摂政兼家が右大臣をやめたのに応じて5人を越えて権大納言となり、22日の一条天皇即位式において従二位(一条天皇が東宮の時に春官権大夫として仕えた労)、さらに同27日には正二位となった。
1ヶ月の間に、殆ど例をみない強引な昇進が行なわれた。
四男の道兼(26)は、花山の蔵人で左少弁で、花山譲位の立役者だったが、6月23日、花山譲位とともに、一条天皇の蔵人頭、7月5日に従四位下、同16日に右中将(道隆の代り)、20日に参議となり蔵人頭を辞め、10月15日の除目で先任参議7人を越えて従三位権中納言、11月22日には正三位となった。
末子五男の道長(23)は、一条即位直後の7月23日、従五位上蔵人となり、27日に正五位下、8月15日に少納言、10月15日に左近衛少将、11月18日に従四位下、翌永延元年(987)正月7日に従四位上、9月4日左京大夫、20日に正四位下をとばして従三位となり、翌2年正月29日に参議をへず権中納言に昇進。この時23歳、先例もない若さ。
道長の兄たちは、兼家の不遇期が長かった分だけ年齢も高くなっているが、道長は末子だったため、被害を蒙ることなく、23歳で権中納言という、記録的な好スタートを切ることができた。
また、それから僅か6年後、父・兄全てが没し、かれ自身が摂関家の筆頭格にのしあがる。
兼家の孫、道隆次男の伊周は、永延元年正月7日の叙位で従五位上(詮子の年給)、9月4日左少将、10月14日正五位下、17日蔵人、翌2年に従四位下、翌永祚元年(989)に従四位上、右中弁と進み、翌正暦元年(990)に右中将、蔵人頭、正四位下となり、翌2年(991)に参議となる。この時まだ18歳にすぎなかった。
伊周と定子を産んだ道隆の妻は高階貴子(きし)で、その父の高階成忠は、一条即位の1ヶ月後には、一条天皇東宮時代の東宮学士の労として、非参議ながら従三位に昇った。
高階氏は奈良時代の長屋王を祖とするが、それほど高位に昇る氏ではなかった。
貴子は「儀同三司(ぎどうさんし、伊周)の母」と呼ばれ、漢詩をよくし、有名な「忘れじの行末まではかたければ……」のように和歌にも才能があり(藤原公任撰『前十五番歌合』)、父の成忠は学者としては傑出していた。
しかし、その弟敏忠は正暦元年(990)に従五位下衛門佐とかろうじて五位になり没したことを考えれば、異例中の異例であった。
■「なにがしかがしといふいみじき源氏の武者達」(『大鏡』)
この時、花山天皇を護送し、強引な出家を実現させたのは、「なにがしかがし(だれそれ)といふいみじき源氏の武者達」といわれる源満仲一族。
そして、満仲の長男頼光は、花山天皇の出家・退位後、兼家によって東宮に擁立された居貞親王の春宮大進に任命される。
また、『古事談』の説話によると、満仲の三男頼信は道兼の腹心とされている。
安和の変の密告に続き、満仲の一族は摂関政治の確立を裏面から支援し、満仲の息子たちも兼家一族の側近という立場を確立した。
満仲は、翌年、本拠の摂津国多田において出家。
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