京都 京都御苑 2012-08-16
*永延元年(987)12月16日
藤原道長の結婚にみる純婿取婚の形式(2)
■道長の二人の妻と子供たち
「この殿は、北の方二所(ふたところ)おはします」(『大鏡』)
彰子が生まれた年、道長は源高明の娘で、姉の皇太后詮子に東三条邸で養われていた源明子(めいし)と結婚した。
道長の兄道隆も明子を狙ったが詮子が許さず、また道長は明子に仕える女房たちに手をまわして首尾よく緑を結び、詮子もこれを認めたので、道長は明子のもとへ通った。
明子は、安和の変で失脚した左大臣源高明の娘。
高明配流の後は叔父の盛明親王が養育していたが、その死後は道長の姉の東三条院詮子が引きとり、東三条殿の東対(ひがしのたい)に住み、女房などをつけて大切に育てていた。
明子は東三条院の猶子のように大切に扱われたと『栄花物語』『大鏡』は伝える。
しかし、実際は、左大臣源高明の娘という高い出自だったとはいえ、有力な保護者を失った娘が、権力者東三条院のもとへ女房、それも特別扱いの女房として仕えていたとする方が事実に近いというのが、梅村恵子氏の説である。
道長はそれまで時姫のもとで育ち、倫子と結婚して土御門邸に入ったので、父兼家の本邸である東三条邸で生活したことはなかったが、明子のところへ通ってはじめて、東三条邸内に生活する機会を得た。
道長の結婚は正妻・次妻とも源氏であり、血筋の高貴な妻を自覚的に選んだ可能性が高い。
道長の父兼家の妻たちがほとんど受領(地方国司の長官)の娘であったことと対照的である。
道長は2人の妻との間に夫々6人の子どもを授かった。
正室倫子との間に男子2人、女子4人、次妻明子との間には男子4人、女子2人がいた。
倫子が正暦3年(992)に頼通、長徳2年(996)に教通と2男子を産み、明子は頼通と同年に頼宗、正暦5年(994)に顕信、長徳元年(995)に能信(よしのぶ)、寛弘2年(1005)に長家の4人の男子を産む。
しかし倫子との子2人(頼通・教通)は元服と同時に正五位下に叔されたのに対して、残りの4人は従五位上に叙されて出身し、昇進のスピードもちがう。
また、倫子の子(頼通・教通)は2人とも最終的には摂関となっている。
明子の子では、頼宗は右大臣に至るが、顕信は途中で出家してしまい、能信・長家は大納言どまりであった。
これは、能力の差ではなく、母親の倫子と明子の妻としての地位の差によるのであり、同居している倫子が正妻であり、高松殿と呼ばれて亡父の高松殿に住み別居していた明子は、明らかにそれより低い地位にあった。
女子についても、倫子の産んだ彰子は一条天皇へ、妍子(けんし)は三条天皇へ、威子(いし)は後一条天皇へ、嬉子(きし)は敦良(あつなが)親王(後の後朱雀天皇)へ入内し、順に天皇に配されたのに対し、明子の産んだ寛子(かんし)は、東宮退位を強制された小一条院教明(あつあきら)親王に配され、尊子(そんし)は源師房(頼通正妻隆姫の弟、頼通の養子)と結婚し、明らかに差があった。
道長のおもな妻はこの倫子・明子であったが、のちになって、系図では権大納言源重光の娘との間に男子が生まれているが、この女性のことははっきりしない。
■舅と婿の関係
通い婚の頃は、婿選びは主に母の役だったらしいが、この頃には夫妻同居のせいもあって、父の世帯主としての立場が強くなり、婿を選ぶのに父は一生懸命になった。
父母は婿を取ると、これを娘と共に家に住まわせ、衣食・雑具から従者の面倒まで、婿の身の周り一切の世話を引き受け一心にサービスする。
婿の生活の世話は従来通り妻の一家の義務である。
後朝(きぬぎぬ)の文(ふみ)や露顕(ことろあらわし)、三日(みか)の餅(もちい)などのしきたりは更に儀式化する傾向があり、最初に婿が通ってくる3日間は、娘の両親は婿の沓を抱いて寝る風習もあった。婿が娘のところに足を止めるようにとのおまじないである。首尾よく3日が過ぎると、婿には準備した新しい着物を着せ、本式の世話が始まる。至れり尽くせり、婿の生活は妻の家に丸がかえの形である。
象徴的なのは衣服の世話で、婿の衣服は妻の家で整えるのが原則であった。
道長の父兼家は、町の小路の女に熱を上げていた頃、装束の修理・新調を道綱の母に頼んだことがあった。道綱の母は、さすがに腹が立ってそのまま突っ返したところ、兼家からは20日余の間音沙汰がなかった(『かげろふの日記』)。
道長の妻倫子の妹は道綱と結婚し、倫子の母藤原穆子は、婿である道長と道綱に、夏冬ごとに夜昼の装束ひとそろいを贈るのがつねであった。
その後、道綱の妻は病死し、道綱は穆子のもとに子の兼経を残したまま、外に出て源頼光の婿になり、頼光の一条の邸に住みついた。道綱はこれで雅信・穆子の家とは縁が切れたが、穆子は終生、道長と同様、道綱にも装束を贈り続けた。当時でも古風なことと評判になったが、婿の衣服を妻の家で整える形をよく表している。
妻の両親は、自分の息子はそっちのけで婿の世話をした。
息子は婿に行った先で世話してくれるので、手出しの必要も権利もない。
長和元年(1021)4月27日夜、道長の次男教通(17)は四条大納言藤原公任の娘(13)と結婚した。公任の姉太皇太后遵子の御所の西の対(たい)で挙式。
公任は、婿教通の世話に一生懸命で、日常の世話はもとより、朝儀に詳しいかれは婿教通のために作法の心得を記した。
公任の著書で儀式の書として名高い『北山抄』は、婿のための指導書を一部分として成立した。
公任は、定頼などの息子に対してはこのような心づかいは見せていない。朝廷で教通が体の具合が悪いといって退出すると、公任もすぐ後を追って中座退出することは再三で、婿に対する気の使いかたは相当のもの。
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