京都 京都御苑 2012-08-16
*永延元年(987)12月16日
藤原道長の結婚にみる純婿取婚の形式(3)
■父と息子の関係
娘と婿の間に子が生まれると、両親は外孫の養育に夢中になる。
息子は外へ出て子が生まれても、一緒に暮らすことはないが、外孫はずっと同居する唯一の子孫である。
婿は他の女に鞍替えしたり、喧嘩したりして外へ出てゆくことがある。しかし、その場合でも、婿は決して子を連れて行くことはない。婿と縁が切れても、外孫は依然同居し、その養育は外祖父母の責任である。
道綱は妻(倫子の妹)が死んだので雅信の家を離れて源頼光の婿になったが、その子の兼経は依然として外祖母穆子の手で育てられた。
藤原顕光の婿の敦明親王は、次に道長の婿になるとそちらに移ってしまって、顕光の娘の延子のところに寄りつかなくなったが、そこに残された諸王子はやはり外祖父顕光が一心に育てている。
一方、自分の息子の子である嫡孫との縁はいたって薄い。
息子は成長期は親もとで育つが、成長した後は他家へ婿に行き、そこで生まれた嫡孫は外祖父母に育てられ、自分は手が出せない。
事情があって嫡孫を手もとに置くときには、養子にするとか、あるいは「取り放つ」という表現を用いて引き取る。
息子は、離縁になったりして帰ってくるときでも、決して妻子は連れて来ない。また、戻って来た息子も、家には娘が婿を迎えて家庭を作っているから、いつまでも厄介にもなれず、別に婿の口を探して出てゆくことになる。父は、娘夫婦とは一緒に生活するが、息子夫婦と決して同居しない。
高群氏はこれを、母系を主とするかまどの禁忌(タブー)と解釈する。
家々にかまどがあり、そこに火があるが、この火は母系により伝えられ、他の家の火と同居することは禁ぜられるという。
例えば、甲の家の火はその娘に伝えられる。息子は婿となって乙の家に行くが、そこには乙の家の火を伝える妻がいる。もし乙の家から息子が乙の火を伝える妻を連れ帰って生活を始めれば、父の家の火である甲の火と乙の火が同居し衝突することになり、これは絶対に許されないことだという。
事実、当時の婿取りの儀式には、火合せという一条があった。これは婿が家を出て婚家に行くとき、家の火を松明にともして行き、婚家では待ち受けてその火を移し取り、3日間燃やし続けてから家のかまどへ入れる。男は家の火の継承者ではないが、他の火で育ってきた人であるから、このような手続きを経て自家の火に同化させる。"
息子夫婦は決して父と同居しない。何らかの事情で息子一家が父の邸に戻る場合でも、それは必ず父の死後か、或いは父が他に移転して火が移っている場合に限られる。同様の理由で、姉夫婦と妹夫婦が同居することはよくあるが、兄夫婦と弟夫婦が同居しないのは、夫々の妻が異なる火を伝えているからだ。
■強力な外戚の立場
貴族の邸宅の伝領関係を見ると・・・。
貴族は京都の諸所に幾つかの邸宅を持ち、その場所の名称で呼ばれることが多い。
師輔は九条邸に居たから九条右大臣、雅信は土御門邸に居るから土御門左大臣と称せられた。これは一種の屋号で、後世の家号、苗字にも似ているが、苗字と違って、殆ど一代限りの称であり、父子が同じ号を称する例は殆どない。
師輔が九条ならば、子の伊尹は一条、兼通は堀河、兼家は東三条である。そして伊尹の一条は息子でなく娘につがれ、そこに婿に来た為光が一条を称した。兼家の東三条の称は娘の詮子に継がれ、兼家の男子の道隆は二条、道兼は粟田(あわた)を称する。道長は後に法成寺に入ったから御堂と呼ばれたが、その前に没していたらやはり土御門と呼ばれただろう。
このように貴族の邸は多く娘に伝えられ、娘はそこを本拠として婿を迎え入れ、男子は成長すればみな他家へ出ていった。
同母の兄弟姉妹は、成長期は共に暮らすが、邸宅を継ぐのは女で、兄弟はいずれ外に出てゆく。但し、本邸を継ぐ女の婿取りについては、一族として父母とともに兄弟もまた一緒になって世話をする義務がある。
他家へ出た男は、婚家先で婿として平均10年~20年間、世話を受けて独立する。生まれた子供は外祖父母が第一の責任者として養育する。男にとって、母の一族と、妻の一族とは、実際生活を通じて深い緑があり、公的には官職・地位や、同氏同族の統制は父系をもって律せられているが、私的には、実生活に密着したものとして母系が強固な力を持っていた。この両面をそなえた姿が、当時の貴族社会の実態である。
天皇の後見役としての摂政関白に外戚であることが要求される理由もここにある。
貴族が娘を後宮に入れるのは、いわば天皇を自家の婿に迎えることになる。
ただ天皇という公的な立場上、天皇を自邸に迎えるわけにいかないから、宮中の局(つぼね)を自邸の出張所として、万端の設備を自分が整え、そこに天皇を婿として迎える形を取る。そして、娘が懐妊すれば自邸に下げて、そこに生まれた皇子は外祖父として自邸で一心に養育する。
その皇子が他日皇位につき、幼帝などという理由から摂政を必要とするとき、その任に当たるべき者は、当時の生活の通念として、天皇の外祖父ということになる。
それについでは、天皇の生母の兄弟が責任を分担することになる。
藤原氏は代々、摂政関白の地位に直結する外戚の地位を確保しようとして様々な運動をおこなったが、外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた当時の社会を考えると、よく理解できる。
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