2012年8月23日木曜日

永延2年(988)~永延3年/永祚元年(989) 「尾張国郡司百姓等解」

京都 下鴨神社糺の森 2012-08-15
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永延2年(988)
11月8日
・尾張国の郡司・百姓ら、国守藤原元命(もとなが)の非法を愁訴する(「尾張国郡司百姓等解」(おわりのくにぐんじひやくせいらげ))。
訴えは、翌年2月にとりあげられて公卿の会議が開かれ、4月5日、藤原文信が守となった。

冒頭の事書(ことがき)
「裁断を被らんと請ふ、当固守藤原朝臣元命、三簡年の内に責め取る非法官物(かんもつ)並びに濫行横法三十一箇条」とあり、
「非法官物」とは解文(げぶみ)本文の各条であげる正税利稲(しようぜいりとう)・地子(じし)・租穀(そこく)・率徴稲(りつちようとう)・調絹(ちようぎぬ)・交易雑物(こうえきぞうもつ)を指す。
尾張国ではこの時は各税目毎に徴収されていて、それぞれについて藤原元命がいかに非法に増徴したかが訴えられている。

元命の非法
①元命が、従来の国司に比べて極端に増税したこと
②国衙行政上、当然支出すべき経費を支出しなかったこと
③元命が京都から連れてきた子弟・即等が国内で種々の横暴を働いたこと
④元命が百姓の訴えをきかなかったり、太政官符など自分に都合の悪い法令を国内に知らせなかったこと

この頃は、官長(かんちよう、受領)に国務の責任は集中し、介以下の任用国司は国務から疎外され地位は低下し、受領の属僚化していく。しかし元命は任用国司の俸給や同行の書生(しよしよう)・雑色人(ぞうしきにん)の食料も支給せず自分のものとしたと訴えられている。元命は、③で訴えられた子弟・郎等を働かせ、国務を遂行していた。

「尾張国郡司百姓等解」(『平安遺文』339)第8条に見える税の納税責任者=「負名」の役割
(意訳)
「代々の国司が引き継いできた、新古の絹布ならびに米頴(べいえい)等を、国守元命が今の郡司・百姓たちから責め取ることについて、適正な判断をお願いします。
右の新古物は、税帳には載せてありますが、有名無実のものです。そこで当尾張国の代々の国司は、決してこれを取り立てようとはしませんでした。なぜならば、「負名」が死去して四、五十年も経っている場合もあるし、「負名」の逃散が既に千余人にのぼるからでもあります。ところが今の守元命朝臣は、去年の三月中旬のころ、有能な使、暴悪の人を我々の許に派遣してきて、切り焼くように取り立てました。往古旧代の国司は、そのようなことはしなかったのに、郡司の手から、郡内の累積負債だと言って、みな悉く捜し取り、人々の戸から、応分の責任を果たせとばかりに、ひどく取り立てます(下略)。」
*納税責任が負名にかかっていたこと、死亡・逃亡した負名の納税責任は、郡司百姓たちには転嫁されなかったことがわかる。
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永延3年/永祚元年(989)
3月4日
・藤原道長、右衛門督を兼任。
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3月22日
・兼家が円融院に奏上し、一条天皇が春日社に行幸する(春日行幸の初例)
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4月
・尾張国守藤原元命を解任し、藤原文信を任じる。
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6月
・太政大臣頼忠、没。
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8月
・永祚に改元
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9月
・余慶を天台座主に補任するが、延暦寺僧徒は承知せず、12月、辞任。
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12月5日
・藤原実資は、円融天皇の信任が厚く頼りにされた。譲位後も円融上皇の院別当になり、頻繁に院(堀河院)に参入している。
円融院は実資に対して、
「汝、殊(こと)に公家の奉為(おんため)に至忠を致す有り。寒熱を凌(しの)ぎ御祈願の為に参入す。公卿無数有れども公を思し奉たる無きを、向後(きようこう)必ず御後見(うしろみ)仕(つかまつ)れ、又行幸有らむ次(ついで)に其の由を申すべし」(『小右記』永祚元年12月5日条)
と述べ、子の一条天皇の後見もしてほしいと言い、一条にも言っておくと述べる。
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12月20日
・兼家、太政大臣。
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12月26日
・道隆、内大臣。道兼、大納言。道長、中納言。
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