東京 北の丸公園 2012-08-24
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(34)
「二十三 「つゆのあとさき」のころ」(その1)
安藤更生『銀座細見』(昭和6年、春陽堂)。
「震災後、銀座は急に賑やかになった。古い江戸は打倒された。江戸っ子は潰滅した。デパートは一斉に銀座へ進出する。銀座は完全に東京を征服してしまったのだ」
「関東大震災は、多数の死者を出した大きな悲劇だったが、同時に、新しい東京に生まれ変るための、自然に起きた再生の儀式でもあった。」(川本)
銀座の復興は案外早い。
広津和郎の随筆「銀座と浅草」(「中央公論」昭和2年4月号)で、震災の年の大晦日、銀座ではバラックとはいえカフェーや食堂が次々に建ち、にぎわいを見せていたと書いている。
「大晦日になって、兎に角、バラック街の、裏側には真暗な闇が巣喰っているとはいえ、外側だけでも、今日見るあの銀座が、殆んど完全に出来上ったのに、歓喜の声を揚げたものだ」
「その当時の東京市民で、大晦日に銀座に出た人は、地震後四月目であの銀座が華々しく復活した事に、みんな狂喜したものだ」
荷風も、この年の暮れに銀座漫歩をしている。
12月14日
「夜お榮を伴ひ銀座を歩み田屋支店にて帽子を購ふ。金弐拾七圓。但し五分引の由。お榮は手巾六枚を買ふ。金八圓なり。帰途木挽町の焼跡を歩み本願寺前の電車に乗る」
木挽町あたりにはまだ焼け跡が残っているが、銀座通りは通常に戻りつつある。
「夜お柴と銀座を歩む」(12月23日)、
「夜銀座を歩む」(12月26日)、
「午後三菱銀行に往き銀座を歩みて帰る」(12月31日)。
震災後、わずか四カ月にして、銀座は漫歩が楽しめる町に回復している。
震災後7年の昭和5年3月24日「帝都復興祭」。
「春風駘蕩、この日復興祭、陛下終日市中を巡幸したまふと云ふ、之がため市中通行留の処多き由、中洲に往くべき日なれど家に留る」と荷風日記。
「つゆのあとさき」(昭和6年、「中央公論」に連載)、『銀座細見』と同じ年。
この関東大震災後のモダン都市東京-デパート、地下鉄、カフェー。トーキー映画、自動車、モガとモボ、流行歌(レコード)……、そうした「モダン相」(大宅壮一)を都市風俗として巧みに取り入れた小説。
銀座のカフェーの女給君江を主人公に、彼女を取り巻く男たちを描いた風俗小説だが、この小説は、同時に、君江という都市の単身生活者を通して変りつつあるモダン都市東京を描いた都市小説にもなっている。
ヒロインの君江は、埼玉県の小さな町の菓子屋の娘、「田舎者の女房」になる気はなく、小学校の友人で東京に出て芸者になり、さらに人の妾となった女を頼って上京、はじめは、保険会社の事務員などしていたが、やがて「淫恣な生活」に入り、上野・池之端のカフェーの女給から、いまでは「ドンフワン」(DONJUAN)という「銀座では屈指のカツフエーに数へられてゐる」店の人気女給になっている。
「銀座でカフェと銘を打った店は、松山省三氏のカフェプランタンにはじまる」(『銀座細見』)。
明治44年、フランス帰りの洋画家松山省三が日吉町(銀座8丁目)に開いたカフェー・プランタン。
そのあと次々に新しいカフェーが開店、震災後、花柳界にかわる新しい遊び場所として急成長。
大正15年11月20日、「現今市中に流行する酒肆(カツフエー)」について書きとめる。
「抑現今市中に流行する酒肆(カツフエー)なるものゝ状況を見るに、巴里のカツフヱーに似て其の實は決して然らざる處、恰吾社会百般の事西洋文明を模倣せんとして到底よくすること能はざるものと相似たり。酒肆の婢は日々通勤すれども、給料を受けず、客の纏頭(*チップ)にて衣食の道を立つ。されば窃に売色を以て業となすは言ふを俟たぎる所なれども、世の風評新聞記者の脅迫を恐れて、容易に酔客の誘ひに應ぜざるが如き態度をなす。帰途手を携へて自働車に乗ることを諾するが如きは、盖し無二の好遇にして、酔客の竊(ヒソカ)に喜びとなす所なりと云ふ。目下太訝(タイガー)には婢およそ三十人あり。十人ツゝを一組とす。赤組紫組青組あり。各白き前垂に七寶焼の徴(ママ徽)章を掲げて之を弁別す。楼上に在って客を迎るもの二組。階下に陣して應接する者一隊なり。各隊日に従って循環し、互に上下す。されば顧客にしてもし某組の阿嬌(アキヨウ)某に思を寄するや、豫め其の組の楼上に在るや、階下に在るやを探知して後、其の席につくと云ふ。酒肆太訝は東洋汽船会社々長浅野総一郎の資金を投じて経営する所。浅草廣小路旧松田料理店の跡にも同氏投資の酒肆あり。世の富豪の金主となりて其の狎妓(コウキ)に藝者家或は待合を営ましむるは既に珍しからぬことなり。酒肆を開き女給を養ふに至りしは亦是時勢変移のなす所と謂可きけつ歟。太訝は震災の翌年春頃より開店し、尾張町の獅子閣(ライオン)と相対して今や其繁榮遙に之に優ると云ふ。銀座適には此他に松月、銀武羅などよべる酒肆あり。皆婢をして客の酔を侑けしむ。然れども其容姿粉飾、前の二楼に比すれば及ばざること遠しと云ふ」
「タイガー」「ライオン」ともに尾張町(銀座4丁目)の交差点にあった。
開店はライオンが明治44年、築地精養軒の経営。タイガーは大正13年、東洋汽船社長浅野総一郎の経営。
宮川曼魚「銀座カフェー繁昌記」(木村荘八編著『銀座界隈』東峰書房、昭和29九年)によると、ライオンは常連中心の店で、女給もタイガーに比べると地味で知性を感じさせた。
後発のタイガーは、一時は女給が二百人もいたほどの大型店。
菊池寛が多勢の友人や文藝春秋の社員を連れてきては、さかんにビールを飲んだ。
正岡容作詞の流行歌「銀座行進曲」(昭和3年)には、「タイガー女給さん文士が好きでライオンウェイトレスレディ気取り」とある。
「カフェーと女給は、芸者と待合に変るモダン都市の新しい風俗である。」(川本)
「今和次郎『新版 大東京案内』(中央公論社、昭和4年)によれば、当時、東京にはカフェーは六千百八十七軒、女給の数は一万三千八百四十九人もいたという。銀座だけでも女給の数は千六百八十人。震災前が芸者の時代だったとすれば、震災後は女給の時代に変ったといっていい。」(川本)
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