2012年9月8日土曜日

昭和17年(1942)9月15日 「大工も白髪の爺となり、余も亦老衰して見る影もなし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園
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昭和17年(1942)
9月1日
・九月初一。晴れて溽暑甚し。午後土州橋に行き夜淺草を歩す。
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9月2日
九月初二。天候猶不穏。溽暑甚し。曝書の傍ノアイユ夫人の詩集その日その日L'Ombre des Jours をよむ。夜金兵衛に飰す。
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9月3日
九月初三。晴。虫の聲夜毎にしげし。
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9月4日
九月初四。秋雨瀟々。午後池袋食堂主人來訪。
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9月5日
九月初五。雨歇みてはまた降る。晝の中より虫の聲頻なり。燈刻食事のため新橋驛を過るに巡査刑事等不良少年の検挙をなすを見る。
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9月6日
九月初六。日曜日 陰。後に晴。
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9月7日
九月初七。晴。
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9月8日
九月初八。晴。残暑燬くが如し。終日困臥。夜芝口の金兵衛に飯す。居合す客よりいろいろの話をきゝたるまゝ左にしるす。

 一 小田急沿線俗に相摸ケ原といふ處に土地を所有せし人あり。分割して値賣をなさむと思居たりしに突然憲兵署に呼出されこの邊一帯の土地は軍部にて入用になりたれば即刻ゆづり渡すべし。日本国内の土地はもともと皇室のものなれば其旨とくと考へし上萬一不承知なれば其趣を届出づべく、もし又承知なれば此書面に署名捺印すべしと言はれ、其男は已むことを得ず憲兵の言なり次第に捺印したり。半年ほどを経て日本銀行宛支払の書類來りたれば金高を計算せしに一坪時価十五六圓の土地の買上一坪わづかに五圓なりしと云。

 一 仙台邊にては日曜日に釣竿を携へ歩むものを、憲兵私服にて尾行し、人なき処に至れば之を捕へ工場其他の構内の雑草を取らせ或は土を運ばせ、一日の賃銭八拾銭を与へて放免する由。今日に至るも徃々この難に遭ふものありと云。

 一 伊豆西側の海岸に山林を有する人のはなしに、其地の蜜柑園は除虫薬剤及肥料欠乏のため樹木次第に枯れ本年は果実の収穫おぼつかなしと云。
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9月9日
九月九日。晴。
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9月10日
九月十日。晴。午後杵屋五叟來話。共に出でゝ金兵衛に飰す。歸宅後枕上フランシス、ジャムの散文集落葉 Feuilles dans le Vent を讀んで黎明に至る。此頃夜の明けかゝるは五時過なり。
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9月11日
・九月十一日 晴。
流言録
芝浦波止場附近には憲兵私服にて見張をなし、その邊を徘徊する者は誰彼の別なく拘引する由。過日一人の洋装せる女を捕へしに、此女は靴足袋を留める金具の中に小さき寫眞機を装置し、折々スカートをまくり靴足袋の下りたるを引上げるふりをなし港内碇泊の運送船などを撮影しゐたるなりと云。寫眞機は米國新發明のものにて日本には無きものゝ由。
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9月12日
九月十二日。くもりては晴れ残暑殊に甚し。夜金兵衛にて歌舞伎座幕内の某子に逢ふ。大切新舞踊にもと鬼太郎君の小星歌澤とら舊新橋の妓鈴野尺八吹蘭童等出演しつゝありと云。
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9月13日
九月十三日 日曜日 晴。秋暑猶熾なり。午後華氏九十度に近し。晡下五叟夫妻小豆の煮たるを携へ來る。蓋し余が配給日本酒の切符を贈りたる返禮のためなり。
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9月14日
九月十四日。晴。
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9月15日
九月十五日。雨ふる。午後大工岩瀬來り明日より偏奇館修繕の仕事にかゝるべしと言ふ。偏奇館は大正九年五月に竣成せしものなれば今年にて二十三年とはなれるなり。大工も白髪の爺となり、余も亦老衰して見る影もなし。
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9月前半、「晴」とだけ書いた日が2日もある。
そして、15日には「余も亦老衰して見る影もなし」と。
やや寂しげであるが・・・。
荷風、満62歳。
この15日間に「・」が2回。
「老衰」はポーズだろう。
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さて、この頃、南方ではガダルカナルが泥沼化の様相を呈してきている。
(別の記事で纏めたい)
そして、
9月11日、横浜事件の端緒となる事件が起こっている。
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昭和17年(1942)9月11日
「横浜事件」の発端
世界経済調査会主事川田寿・定子夫妻、神奈川県特高に検挙。

昭和16年1月、アメリカ留学(労働問題研究)から帰国。
当局は帰国者の中にアメリカのスパイ或いはアメリカ共産党を通じて国際共産党の指令を受けている者があるのではないかと疑惑を持ち、船会社の人たちに、乗船者中にアメリカで左翼運動をしでいた者を指名させる。
川田夫妻の名前が挙げられ、検挙となる。
令状には「日本共産党再建運動を主謀したかどにより逮捕する」との語句がある(川田夫人証言)。
取調べは、スパイ建議・国際共産党関係に終始し、関係者として川田の実兄、アメリカ時代の友人たち、世界経済調査会の関口、諸井、満鉄東京支社調査部員高橋善雄などが召喚されたり検挙される。
川田夫妻に対する取調べは峻烈を極めるが、当局の狙うスパイ嫌疑・国際共産党関係の事実は出ず。
川田が慶応大学在学中、学生運動に関係し、昭和5年アメリカに留学、以来15年迄の10年間、労働問題研究に専心し、「米国に於ける労働運動に参画し、亦邦人労働者の組織啓慶に従事したる外、平和・戦争反対運動を支援し、日本の主戦政策を批判し、海軍水兵に対する反戦活動、日本勤労者に対する反戦宣伝をなした」(川田寿口述書)との嫌疑で起訴、昭和20年7月25日、川田は懲役3年執行猶予4年、定子夫人は懲役1年執行猶予3年の判決。
川田夫妻の場合、10年間の日本での空白あり、アメリカでの活動だけが問題とされるが、関係者として召喚された高橋善雄が、関口・諸井はすぐ放免されたにも拘らず、かつて一高在学中に学生運動の経験があったことから検挙され、ここから横浜事件は拡大してゆく。
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9月14日
細川嘉六、東京警視庁に検挙。「改造」筆禍事件。世田谷警察署に留置後、「細川グループ」フレームアップのため横浜事件と合流。
細川とは関係なしに進行していた神奈川県特高による満鉄グループと、「泊事件」関係者の取調べの交叉線上に、細川の名前が浮かび上り、細川は検察と特高の「謀略のピラミッド」の頂点に立たされる。
細川は、昭和18年8月頃に東京拘置所へ、翌19年初夏に横浜刑務所未決藍に移され、ここで完全に横浜事件に合流してしまう。
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