東京 北の丸公園 2012-08-29
*1755年(宝暦5)
この年
・宝暦の大飢饉。この年から3ヶ年間、東北地方一帯を凶作が襲う。
「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」。
別の記録
「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」とあり。
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・この年、越前は極度の天候不順による水害・虫損に見舞われる。
福井藩はこれまで最高の14万5千石余、藩領高の約半分に及ぶ損耗と幕府へ届け出る。
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・「徳川除封録」によれば、美濃加納城主安藤信尹は、「飲酒遊蕩テ耽」ったとして1万5千石を削られる。
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・島津重豪(15、しげひで)、第25代薩摩藩主となる。養母は将軍綱吉養女竹姫。
重豪は蘭癖大名と呼ばれるほど海外文化に興味を示し、種々の近代化政策をとる。
また、重豪の養母(父継豊夫人)は5代将軍徳川綱吉の養女竹姫、夫人は一橋宗尹の娘保姫、そして娘茂姫は近衛家養女として11代将軍家斉の夫人になる(後の広大院)。重豪は将軍の岳父として、また島津家は御台所の実家として権勢を誇るが、藩財政は逼迫し、藩債(借金)は120万両余にも達する。
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・ポルトガル、ポンバル侯、「商業評議会」設立。
商業・貿易・工業・海運業に関る問題を扱う。国家の中核となるブルジョアジーの育成のための経済政策をこの機関を通して実施。
また、イギリス経済従属からの脱却をはかるため、植民地の農業開発と本国の工業との一本化のための独占会社を設立。
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1月
・郡上一揆。郡上藩江戸屋敷挽回策を画策。
郡上藩用人宇都宮東馬が、江戸家老伊藤弥市郎らと相談、巻返しを図る。親戚の老中本多正珍(まさよし)の家臣と相談、分家の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか)に口利きを依頼、勘定奉行・大橋近江守を通して笠松の美濃郡代・青木次郎九郎へ書面を送らせる。
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・ルソー、 「音楽辞典」執筆を決心。「百科全書」執筆項目の出来に不満あり、ラモーの批判に答える為にも。
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1月11日
・大寒波到来。イスタンブール旧市街と新市街を隔てている金角湾が凍結
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1月12日
・[露暦1月1日]女帝エリザベータ・ペトロヴナ、モスクワ国立大学創設
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2月10日
・哲学者・法学者のモンテスキュー(75)、没。
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2月29日
・幕府、各庁の冗費節減と勤務の厳正を触れだし、勝手向御用掛を任命。
4月、以降3年間の各役所の年額予算を策定し直し。規模は1750年のものより一層削減。
また、以降1771(明和8)年、1778(安永7)年と更に改訂するが、いずれも原則的にはより一段とその規模を削減。
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4月10日
・大地震により日光山奥院が崩壊
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4月15日
・サミュエル・ジョンソンの「英語辞典」刊行
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5月11日
・フランス、ジャン・バプティスト・アンドレ・アマール(弁護士、国民公会議員、保安委員、テロリスト)、グルノーブルで裕福な毛織物商の家庭に誕生。
オランジェ大学で法律を学び、74年グルノーブル高等法院で弁護士となる。
84年、20万リーヴルを払い財務官受爵官職を購入して貴族となる。
89年グルノーブルのジャコバンクラブに入り、翌年副議長。
92年イゼール県代表として国民公会議員。独立系モンターニュ派に属し国王裁判・ジロンド派追放で活動。派遣議員となる。
93年3~5月アン県・イゼール県で反革命容疑者1千以上逮捕。11月保安委員会に入り、ヴェディエに次ぐ主要メンバーとなる。
94年4月5~19日国民公会議長。テルミドール9日クーデタでは反ロベスピエール側に協力。
95年4月2日左派残党として逮捕、10月26日恩赦。ここでバブーフらと知り合う。
96年5月10日陰謀露見で再逮捕。翌97年5月26日無罪判決。
以後、政治から遠ざかり、1816年12月26日パリで没。
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