東京 北の丸公園
*1763年(宝暦13)
この年
・清との唐銀貿易開始。俵物はその見返り輸出品として重要性を増す。
「宝暦十三年石谷備後守(長崎奉行)様御在勤の節、唐銀三百貫目持渡り、当年より始め二十年の間、年々持渡るべき由、右代り物は銅並びに俵物にて御渡方相成り候処、唐人共銅より俵物を相好み候趣、右に付是迄請高の外、俵物出方相増仕法申上げ候はば、誠に御国益の儀忠節に付、憚りなく存じ寄り申上げ候様、後藤惣左衛門殿より申聞かされ、岩原御勘定信田新助殿、篠本六左衛門殿よりも毎々御沙汰にて、猶御手頭を以て仰渡され候に付、新浦相開き、且出方相進め候ため、仲間手分致し回浦仕るべき段申上げ候処、御満足に思召され、諸国領主御代官等への御添翰下置かれ、当地在番の聞役えは御書付を以て、右の趣仰渡され候旨、仰せ聞かされ候」
(『長崎之俵物請方雑書』)。
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・八戸藩飢饉(宝暦12年(1762)より4年間の飢饉の状況)『八戸藩史料』
この年、
「五月下旬より雨降続き冷風強く、諸作不熱の処、八月十五日夜より同十六日夜中迄東北風烈しく大雨にて、所々山崩れ出水」という状態で、2万石のうち1万9,781石の損毛。
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・江戸でうなぎの大蒲焼きがはやる。
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・平賀源内、測量器械として水平をみる平線儀を発表。
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・「宝暦十三(一七六三)年には藷役所の費用を節減すべき命令を勘定奉行が出している。」(辻善之助『田沼時代』)
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・長州藩、領内検地による増収分を資金にあてて撫育局を設置し、新田開発や産業を奨励する。
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・フランス人ジョゼフ・キュニョが蒸気を推進力として用いることを考え、蒸気で動く車をつくるが、馬車ほど速く走らず、実用には向かないため、この発明はこれだけに終わる(1770年)。
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1月5日
・(東方の三博士の祝日の晩)、モーツアルト一家、ザルツブルクに戻る。
ヴォルフガングは関節リューマチになり、1週間床に伏す。
モーツアルトの最初のウィーン旅行は神童モーツアルトの評判を帝都ウィーンに広め、レオボルトは、この旅行は「完全な成功をもたらした」と捉える(1763年2月17日、ロッター宛手紙)。
更に、レオボルトは、ウィーン滞在中に次の旅の計画を立て準備を始めている。
「私はもうオランダやフランス宛の紹介状をいくつも持っています」と語る(1762年11月6日付、ハーゲナウアー宛)。
レオボルトは次の旅行の目的地として、フランスの首都パリやルイ王朝の拠点ヴェルサイユあるいはオーストリア帝国と関係深いフランドル地方を考えている。
ロッター宛て手紙には、「旅を始められるよう、あとはただツバメがやってくるのを待つのみです」と言い、新しい大旅行に大きな期待を寄せている。
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1月26日
・フランス、ジャン=パプティスト=ジュール・ベルナドット、ベアルヌ地方ポーで弁護士の子として誕生。ナポレオンの元帥、スウェーデン・ノルウェー王、1844年3月8日ストックホルムで没。
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1月27日
・前年12月の宝暦十勝沖地震の余震が続き、この日の強震により建物に多くの被害がでる。
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2月1日
・前年12月の宝暦十勝沖地震の余震が続き、この日、城の塀が倒れ、御朱印蔵の屋根にも被害がでる。
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2月10日
・パリ条約締結。イギリス・フランス間。フレンチ・インディアン戦争終結。
北米、西インド諸島、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編される。
フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地の殆どを失う。
北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になる。
しかし、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、植民地への課税政策をとり、これがアメリカ独立革命を引き起こすことになる。
フランスは、インディアン民族に許可なくカナダを、スペインはフロリダをイギリスに割譲し、また、フランスは仏領ルイジアナのうちミシシッピ川以西を同盟国スペインの労に報いるため割譲、さらに同川以東のルイジアナは戦勝国イギリスに割譲した。
北米大陸におけるフランスの植民地支配は終わる(17世紀初頭から維持されてきた「ヌーヴェル・フランス」は崩壊)。
なお、パリ条約締結後、カナダ東部アカディア地方を追われたフランス系住民にはニューオーリンズ一帯に移住した者が多く、独自のケイジャン文化を育てた。
また、カナダに隣接するメイン州(1820年にマサチューセッツ州より分離)北部のセント・ジョン渓谷に移り住んだ者もいた。こののちカナダはイギリス領となるが、フランス系カナダ人は、民族的自覚を発展させ、イギリス帝国の支配に対する抵抗は続く。
イギリスは、パリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナ地方を獲得したが、1763年、イギリス王ジョージ3世は新たに英領となったルイジアナを英国の直轄地として、アパラチア山脈に設けられた国王宣言線よりも西側に13植民地の人々が入植することをインディアン民族に断りなく禁止した。
また、イギリスはスペインにマニラとハバナを返還するかわりにフロリダを獲得した。
イギリスはこの時、西インド諸島のグアドループ、マルティニーク、セントルシア、セネガル沖のゴレ島、インドの商業都市などをフランスに返還した。
フランスは代わりに上記以外に西インド諸島ではドミニカ、グレナダ、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、トバゴ島をイギリスに返還した。イギリスはさらにスペインとの合意に基づき、イギリス領ホンジュラスの城壁を取り除く替わりに領有を維持した。
このときフランスは北アメリカでのほとんどの領土を放棄したが、ニューファンドランド島沖での漁業権とその漁獲を乾燥させるための2島、サンピエール島・ミクロン島の領有を維持。
戦争中、イギリスはセントヴィンセント、グレナディーン、トバコ、ドミニカ、セントルシア、グアドループ、マルティニク等を占領。
イギリスの砂糖ロビーは過剰生産をおそれ、セントルシア、グアドループ、マルティニクの3島をフランスに返還。
フランスは、カナダ全土とノヴァスコシア、オハイオ川流域を放棄。
この取引を「雪と砂糖の交換」と称する。
7年戦争のもたらしたもの
①イギリスの北米13植民地の人々は国王宣言線に激しく反発した。
さらに、イギリス本国政府の重税政策(砂糖法(1764年)、印紙法(1765年))により、本国と13植民地との間に深刻な対立感情が生まれる。
②北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたため、13植民地は本国からの安全保障を必要としなくなった。アメリカ独立戦争を促す大きな要因となる。
③ルイ15世統治晩年のフランスでは、オーストリア継承戦争~7年戦争の戦費、豪奢な生活などによって財政事情が悪化。
ルイ16世時代に入るとさらにアメリカ独立戦争支援のための出費もあり、新領土を獲得していないことにより財政赤字は累積。こうした逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして全国三部会が招集したことがフランス革命勃発の契機となる。
④フランスとの植民地獲得競争で優位を確実にしたイギリスは、植民地貿易の利潤をいっそう蓄積することが可能となった。
このことは1760年代以降のイギリス産業革命を促した要因のの一つになる。
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2月12日
・[清・乾隆27年12月30日]長編小説「紅楼夢」作者の曹雪(48)、没。
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2月12日
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・仏劇作家ピエール・マリヴォー(75)、没。「愛と偶然の戯れ」。
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2月15日
・フベルトゥスブルクの和約合意。プロイセン・オーストリア・ザクセン間。
オーストリア、シュレジエンをプロイセンに譲る。
プロイセンはマリア・テレジア長男ヨーゼフの皇帝選挙支持約束。
<独におけるオーストリア・プロイセン「二元主義」確認>
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2月28日
・モーツアルト(7)父レオポルトのザルツブルク宮廷副楽長就任公表。
宮廷楽団楽長エーバーリン没に伴い、副楽長ジュゼッペ・フランチェスコ・ロリ(1701~78)が昇任。レオポルトは死ぬまで副楽長の地位。
この日、大司教誕生日祝宴でモーツァルト・ナンネル姉弟の弾奏披露。
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3月
・幕府、神田明神に祭礼道具修復料200両を寄進する。さらに、8月に300両を貸与する。
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・熊本藩、高橋町に精蝋所を設置し、蝋の専売を推進。
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3月17日
・7年戦争集結に伴い、ザルツブルクの軍勢は多くの兵を失って帰郷。
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3月19日
・福岡藩、農民が課役を逃れようとして武家の家来になるため、その禁令を出す。
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3月22日
・幕府、未産出や休山の諸国銅山および銅鉱脈有無の調査を命じ、銅の増産を奨励する。
「宝暦十三(一七六三〕年の三月二十二日に幕府は令を出して、諸国に銅鉱の在る山で、今まで銅を採らない処、またはかつて採った処でも今廃絶している処は、その地の代官または領主において点検を遂げて、今後はいよいよ銅の出るように沙汰すべしという令を出した。」(辻善之助『田沼時代』)
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4月4日
・幕府、朝鮮通信使の大坂~江戸間の道中人馬割りつけを対馬藩主宗氏に命じ、その費用として9万7千両を与える。
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4月5日
・幕府、御家人の息子が身分をわきまえない姿形で往来するため町奉行組に見回りと捕縛を命じる。
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4月7日
・イギリス、ビュート内閣が総辞職。
16日、ジョージ・グレンヴィルが組閣。
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4月23日
・英ジョン・ウィルクス下院議員(36)の国王誹謗事件。
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