2012年11月5日月曜日

1762年(宝暦12)9月~12月 モーツアルト、第1回ウィーンへの旅(1762年9月17日~1763年1月5日) 【モーツアルト6歳】

東京 北の丸公園
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1762年(宝暦12)
9月
・イギリスのコルビレ艦隊とニューヨークからアルヘンストの陸軍部隊、フランス軍が占領したカナダのセントジョンを包囲。フランス軍降伏。
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9月2日
・土佐で地震。高岡郡で瓦落ちや山崩れ。余震は16日まで続く。
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9月10日
・竹本座で近松半二の「奥州安達原」が初演。
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9月15日
・佐渡で地震。
石垣や家屋が破損。銀山道が崩れて死者が出る。
津波により鵜島村で26戸が流失し、新潟でも地割れを生じる。
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9月18日
モーツアルト(6)、第1回ウィーンへの旅(1762年9月17日~1763年1月5日)
モーツアルト一家(従僕のリヒャルト・エストリンガーを含め)、第1回ウィーン旅行出発。
20日夕方、ドナウ河畔バッサウに到着。旅館ツム・ローテン・クレーブス(赤蟹館)に宿泊。領主司教トゥーン=ホーエンシュタイン伯ヨーゼフ・マリアの前で腕前披露。
26日夕方、河川の定期便でリンツ到着。ツア・ドライファルティヒカイト(三位一体館)に宿泊。司教座聖堂参事会員へルベルシュタイン伯が同行し、ウィーンに先行、神童到着をウィーンに広める。モーツアルト、滞在中に風邪をひく。

この旅行は、当時の旅行の仕方の一面を物語る。
モーツァルト一家はザルツブルクの北北東の方角にあるパッサウまでは陸路で、ドナウ河畔のこの町からは河船の定期便を利用してウィーンに至る。河路を選んだことは当時の駅馬車などによる陸路の交通が、決して快適なものではなかったことを示している。
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9月22日
・尼崎浦、朝鮮信使来朝にさいして浦役を勤めているので、信使送迎のため淀宿人馬賃金の割銀賦課を免除してほしい、と大坂町奉行所へ事前に願い出る。
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9月23日
・インド・マドラス港からのイギリス艦隊14隻、スペイン領フィリピンのマニラ湾に侵入。
翌24日、上陸したイギリス軍約2,300、スペイン守備隊800を降伏させる。
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10月
・幕府が石灰会所を設置し、八王子の石灰や江戸の蠣殻灰などの統制を図る。
運上を取る。

「これは宝暦十二(一七六二)年十月に令を出して、石灰業者九人を定めて、武州の多摩郡上成木村、北小曾木村、同国高麗郡上直竹村の者にこれを命じ、それから運上を取った。従来は江戸に石灰業者を定めてあったのを、今後一切江戸中においては何方から石灰を持廻ろうとも引受ける事はならぬ。もし引受けた者があったならば厳罰に処するということになった。」(辻善之助『田沼時代』)
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10月
・幕府、大坂町奉行の許可をえたうえで町人が買った米を売買することを認める。
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10月1日
・リンツ。モーツァルトと姉のナンネルの公開演奏会。上部オーストリア長官のレオポルト・シュリック伯爵夫妻が臨席。
4日午後4時半、船でリンツ出発。夕方、マウトハウゼン着。
5日、イブス着。モーツァルト、イプスのフランシスコ修道会の教会でオルガンを演奏。シュタインへ向かう。

リンツから、レオボルトのハーゲナウアー宛の第1信が書かれた。
7年戦争での、オーストリア軍の捕虜となったプロイセン軍兵士をまのあたりで見かけたと記す。
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10月3日
・ [露暦9月22日]エカテリーナ2世、自ら戴冠して即位。陽気な貴夫人革命
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10月5日
・ドイツ作曲家グルックのオペラ「オルフェスとエウリュディケ」初演
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10月5日
・イギリス軍、マニラ占領。~64年。これに呼応して最後の中国人(華僑)反乱。
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10月6日
・午後3時、モーツアルト一家、ウィーン到着。宿舎は旅館「ツム・ヴァイセン・オクセン」。10月中旬以降、ティーフェン・グラーベンにあるヨハネス・ハインリッヒ・ディッチャーの家に滞在。
9日、トーマス・ヴィンチヴエッラ・コラルト伯爵邸でウィーンで最初の演奏会。

この最初の音楽会の際に歌った女流歌手マリアンナ・ビアンキは10月5日にヴィーン宮廷劇場(通称ブルク劇場)で歴史的初演を行なったクリストフ・ヴィリバルト・グルックの改革オペラ「オルフェーオとエウリディーチェ」で女主人公エウリディーチェを歌った歌手。
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10月10日
・レオボルト、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714~87)の改革オペラ「オルフェーオとエウリディーチェ」再演を観に行く。

この時、レオポルトは、マリア・テレジア第2皇子レオボルト大公(後、トスカーナ大公~皇帝レーオボルト2世)が他の桟敷席に向かい、大声で「まことに見事にクラヴィーアを弾く幼児がウィーンに来ている」と云う評判を喋っている場に出くわす。
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10月13日
・モーツアルト、シェーンブルン宮殿に伺候。女帝マリア・テレジアや皇帝フランツ1世臨席の御前演奏。神童の評判を高める。
15日、マリア・テレジアよりヴォルフガング、ナンネルルへ大礼服届く。
翌1763年初、レオポルトはモーツァルトにこの礼服を着せて、ピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニに肖像画を描かせる(現在、モーツァルト生家にある「大礼服を着たモーツァルト」)。
19日、皇室主計官を通じて皇室から100ドゥカーテンを下賜される。

レオボルトの10月16日付ハーゲナウアー宛の手紙。
「私たちは女帝陛下をはじめとして、この上ないご好意をもって迎えられました。私たちの話は作り話と思われることでしょう。ヴォルフェルルは女帝陛下のお膝に飛びのり、お首に抱きついて、したたか気のすむまでキスをしたのです。要するに、私たちは三時から六時までお傍におり、皇帝陛下ご自身、別のお部屋から出ていらっしゃり、私をそこに導かれ、皇女様がヴァイオリンをお弾きになるのをお聞かせくださいました。・・・十五日には、女帝陛下様は皇室主計官をつかわされて、衣服を二着お贈りくださいました。主計官は盛装で私どもの宿までお越しになったのです。一着は息子のため、一着は娘のためです。」

19日の手紙。
「ヴォルフェルルの衣服がどんなにみえるか知りたいでしょうか? 藤色の素晴らしく立派な織物のもので、胴衣は同じ色の波紋絹布で、上衣とチョッキは金モールで幅広く、二重に縁づけしてあります。これはマクシミーリアーン皇子のために作られたものですし、ナンネルルの洋服はさる皇女様の宮中服です。これはいろいろな種類の縁縫いのある白い錦模様の琥珀織りです。」

レオボルトは、翌1763年、この大礼服を着たヴォルフガングとナンネルルの晴れ姿をザルツブルクの絵師ビエートロ・アントーニョ・ロレンツォーニに描かせた(現在モーツァルト博物館の所蔵)。

フランツ・ニーメチェクが伝えるエピソード。
モーツァルトは宮殿の磨きぬかれた寄木細工の床の上でころんでしまったが、一人の皇女(マリー・アントワネット)助け起こしてくれて、感激したモ-ツァルトはこの皇女をはめちぎったという。

シュリヒテグロルが伝えるエピソード。
皇帝フランツ1世の傍らで、モーツァルトがクラヴィーアの前に坐り、演奏を始めようとした時、皇帝に向かって、「ヴァーゲンザイルさんはここにはいないの? これが解るあの人がきてくれなくちゃ。」と言う。
皇帝がヴァーゲンザイルをクラヴィーアの前に坐らせると、モーツァルトは、「あなたの協奏曲を一つ弾きますから、ぼくのために譜めくりをなさらないといけません。」と言ったという。
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10月14日
・思想家で自然世の安藤昌益(60)、没。
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10月中旬
・10月中旬、貴族の邸への訪問。
フェルディナント大公、マクシミリアン・フランツ大公、カウニッツ=リートベルク伯爵、ウールフェルト爵など。
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10月17日
・ウィーン、カール・ツィンツェンドルフ伯爵の日記
「ザルツブルクからきた少年とその姉がクラヴィアを演奏した。・・・その貧相な男の子は素晴らしい演奏をする。彼は精霊の子供で、生き生きとして魅力的である。姉が模範的な演奏をする。男の子は姉に拍手を送っている。クラヴィアの上手なグーデヌス嬢が彼にキスをしたら、彼はそのあとを手でぬぐっていた」
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10月19日
・レオボルト、皇室主計官を通じて皇室から百ドゥカーテンの下賜金を賜わる。
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10月21日
・モーツアルト、夜7時、再度のシェーンブルン宮伺候。夜、重い病気(しょう紅熱)に罹る。31日まで寝たきりになり、たくさんの演奏会をキャンセル。レオボルトは、薬を調合し、さらにジンツェンドルフ伯爵夫人の侍医ベルンハルト博士の診察を受けさせる。
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11月
・ルソー、 『ピグマリオン』を執筆。
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11月3日
フォンテンブロー仮条約締結。フランス・イギリス・スペイン間の平和仮条約
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11月22日
・(音楽の守護聖女と讃えられた聖セシリアの祝日)、モーツアルト、宮廷楽長カール・ゲオルク・フォン・ロイター(1708~72)邸に招待。
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12月
・松平右近将監武元、勝手掛老中に就任。
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12月
・ザクセン、フベルトゥスブルク、プロイセン・オーストリア、7年戦争の休戦条約交渉開始。
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12月1日
・[清・乾隆27年10月16日]清、イリ将軍設置、明瑞を初代将軍とする
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12月11日
・モーツアルト一家、ウィーンよりプレスブルク(現、ブラティスラヴァ)へ。
24日、ウィーンに戻る。
31日朝、ウィーンを出発。
翌1月5日、ザルツブルク着。

レオボルトの異常な歯痛と異常な寒波のためクリスマス・イブまでプレスブルクに滞在。
レオボルトは、ここで「たいへん調子のいい馬車」を買う。続く西方への大旅行はこの馬車を使う。
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12月16日
・宝暦十勝沖地震。
八戸で大橋が落下、種市で堤防や橋が破損した。函館でも強く感じ、佐渡や江戸でも有感であった。津波は八戸・久慈で4~5m。
宝暦13年1月27日の余震は八戸では本震より多くの家が倒壊し、津波もあった。
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