東京 江戸城(皇居)二の丸庭園
*1763年(宝暦13)
8月
・黄檗(おうばく)宗万福寺が困窮を理由に、幕府から銀60貫を貸し与えられる。
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8月
・土佐藩、幡多郡の新田開発資金などを集めるため、系譜や職業を問わず、新規に郷士にを募集。
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8月
・オーストリア、マリー・アントワネット、フランス王太子ルイ・オーギュストの結婚相手候補となるが、フランス側は慎重に対応する。
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8月初旬
・モーツアルト一家、「古風な」ヴォルムス到着
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8月3日
・モーツアルト一家、「真中にぎっしりと建物がたてこんだ」マインツ到着。
名歌手アンナ・ルチーア・デ・アミーチス(1740?~1816、のちの第3回イタリア旅行中ミラノでの「ルーチョ・シッラ」のヒロイン役を託す)一家と知合う
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8月10日
・モーツアルト一家、フランクフルト・アム・マイン到着。初めベンダー・ガッセ3番地の屋根裏部屋に、のち「ツム・ゴールデネン・レーヴェン(金獅子館)」に宿泊。滞在中4回の演奏会を開き、ゲーテも出席する。
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8月12日
・初めの旅館の窓にレオポルトが「ザルツブルク宮廷楽団長モーツァルトとその家族、1763年8月12日」と落書き(フランクフルト歴史博物館に現存)。
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8月16日
・この日付け「フランクフルト照会・広告週報」に演奏会の広告。
「・・・来る木曜日、8月18日夕方6時から、リープフラウエンベルクのシャルク邸の大広間で音楽会が催されることで、この機会に二人の童児、即ち12歳の少女ならびに7歳の男児が、協奏曲、トリオ、それにソナタを、次いで男児が、同じものをまたヴァイオリンで信じがたい妙技によって弾いてのけるのを聞かせてくれるものである。ところで、こうしたことが、これほど幼い童児たちによって行なわれ、しかもクラヴィーアの完壁な巨匠たる男児がまこと熟達した腕前でこれを弾くので、前代未聞かつ信じがたいものであったため、これら二人の童児の技能は、ザクセン選帝侯(ザルツブルク大司教のあやまり)、バイエルン選帝侯、およびプファルツ選帝侯の宮廷を驚嘆させたばかりか、オーストリア王帝国皇帝陛下におかせられても、彼らの四ヵ月にわたるヴィーン滞在中にも、格別のお楽しみともなり、またひろく一般の人々の驚嘆の的ともなった。そのため、当地の聴衆にも若干の楽しみを与えてくれることがそれだけにいっそう望まれる。こうした年齢の童児について、このようなことを目にし、耳にしたことがあると確言できる者は期待できないからである。つけ加えれば、彼らはこのあとただちにフランスとイギリスに向けて旅を続けるので、今回が唯一の音楽会となるはずである。入場料は一人一夕ーラー。」
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8月18日
・モーツアルトとナンネル、フランクフルトでの第1回音楽会。夕刻6時にリープフラウエンベルクのシャルフィッシャー・ザールで。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(14)出席。
70歳近くのゲーテとの対話を秘書エッカーマン(1792~1854)が記録(1830年2月3日)。
「ゲーテのところで食事をした。私たちはモーツァルトについて語った。『私は七歳の子供の彼を見たことがあるよ』とゲーテは言った。『その時、彼は旅行の途中で演奏会をしたのだ。私自身は十四歳の頃だったが、髪をきちんと整えて、剣をつけた小さな男の子を今でもまだまったくはっきりと思い出すよ。』」。
「私は、デーモンというものは、人間をからかったり馬鹿にしたりするために、誰もが努力目標にするほど魅力に豊んでいてしかも誰にも到達できないほど偉大な人物を時たま作ってみせるのだ、という風に考えざるをえないのだよ。こうして、デーモンは、思想も行為も同じように完壁なラファエロをつくりあげた。少数の後継者たちが彼に接近はしたが、彼に追いついた者は一人もなかった。同様に、音楽における到達不可能なものとして、モーツァルトを作りあげた。文学においては、シェークスピアがそれだ」(「ゲーテとの対話」)。
ゲーテの父、フランクフルトの帝室顧問官ヨハン・カスバル・ゲーテは1763年8月18日の出納簿に次のように記す。「フランクフルト・アム・マイン、一七六三年八月十八日、二人の童児の音楽会のために、四グルデン七クロイツァー。」
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8月19日
・幕府、効能がないとして広東人参の市中販売を禁じる。
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8月30日
・モーツアルト、フランクフルトでの最後の音楽会(4回目)。午後6時シャルフ邸。これまでと同様、鍵盤を隠して演奏したり、即興演奏したり、奇跡を人々に見せつける。
「フランクフルト照会・広告週報」に演奏会の予告。
「十二歳の少女と七歳の童児は、クラヴサンまたはフリューゲルで協奏曲を弾き、しかも少女の方は大作曲家たちのまことの難曲を演奏するが、そればかりか童児の方もまたヴァイオリンで協奏曲を弾き、合奏曲ではクラヴィーアで伴奏を行ない、クラヴィーアの鍵盤を布切れでおおい、しかもその布切れの上から、まるで鍵盤を実際まのあたりに見ているかのように巧みに演奏する。彼はさらに離れたところにいても、人がクラヴィーア上で、あるいは思いつくかぎりのすべての楽器、鐘、コップ、それに時計等々で出すことができる個々の、または和音のかたちのあらゆる音を、この上なく正確に言いあてる。最後に彼はハープシコードばかりでなく、オルガンでも即興演奏を行ない、ハープシコードを弾く仕方とはまったく違ったオルガン演奏法をも自分が心得ているのを見せてくれる。」
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8月31日
・モーツアルト一家、マインツに戻る。~9月13日滞在。
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9月1日
・暦に載っていない日食が起り、暦を作る責任者を処罰
(実際には日食は予測されていたが、日食時間を短く予測したために暦には載せなかったと釈明するが聞き入れられず)。
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9月5日
・鳥取藩、町々の役人を処罰する。
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9月9日
・福岡藩、年貢上納の時期に限り商人が村内へ立ち入ることを許可する。
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9月9日
・谷文晁、誕生。
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9月14日
・モーツアルト一家、マインツ出発。
17日、ライン河を下りコープレンツ到着。
18日、モーツアルト、帝国伯ヨハン・フィリップ・フォン・ヴァルダードルフの許で御前演奏。21日、モーツアルト、音楽会。風邪をひく。
コープレンツから9月26日付けレオポルトの手紙。
ライン河を下るにつれて、物価がしだいに高くなっていく様子を細かに書く。この旅行が如何に細心の経済的配慮の下に行なわれているかを示す。レオボルトは既にこの時期に、自分たちが万聖節(11月1日)以前にパリ到着できないと洩らしている。
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9月27日
・モーツアルト一家、コープレンツ出発→ボン(船でライン川を下る。夕方、ボンに到着)→ブリュール。
29日、ケルン到着。
30日、アーヘン到着。
ケルンは南ドイツ人レオボルトにとっては「古くて、あまり人は多くない」が、「陰気で、しかもびっくりするほど大きな都会」で、「当地の大聖堂は内部がまったくいやらしい趣を呈している」し、「聖歌の朗唱は、キリスト教聖歌というよりは、ユダヤの宗派に近く、交誦を歌う子供たちは・・・悪がしこい浮浪児のように、まるで馬鹿みたいに声をかぎりに叫んでいる」こと、「たくさんの宝石、金銀が鉄製の箱に入れられ、しか拝観料をとって展覧れていること」は耐えがたいもの。
またレオボルトは、悪路、異なる貨幣、物価高に不平を洩らし、プロイセン王女アマ-リエに拝謁したが、「侍臣全員がお医者の随員よろしく水のぽたりぽたりぐらい」のお金の使いようで、「王女様が、子供たち、とくにヴォルフガング先生になさって下さったキスが、純金の新しいルイ・ドール金貨だったら、私どもは申し分なく幸せでしたでしょう」と皮肉を言う。
レオボルトは、ザルツブルク出発後ドイツ各地の主要司教領・選帝侯領(バイエルン選帝侯国、アウクスブルク司教領、ヴュルテンベルク大公国、プファルツ選帝侯国、ヴォルムス司教領、マインツ大司教領、トリアー大司教領、ケルン大司教領など)を巡っている。
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