2012年11月14日水曜日

寛弘9年/長和元年(1012)11月 大嘗会 「風流詞を以て云ふべきに非ず。末だ見ざる所なり。日耀き心迷ひ、書き記すべきに非ず」

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘9年/長和元年(1012)
5月20日
・大宰大弐平親信が献上した唐物の御覧を三条天皇が行い、瑠璃灯炉(るりとうろ)が中宮妍子に奉じられている。
翌日、親信は、皇太后彰子に丁子・蘇芳などを献上している。
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6月
・この頃、頼光の弟の頼親(よりちか)・頼信(よりのぶ)も道長に仕えている。
頼親は一条天皇の中宮彰子(しようし、道長娘)が生んだ敦成(あつなり)親王(のちの後一条天皇)や三条天皇の中宮妍子(けんし、道長娘)が生んだ禎子(てうし)内親王(後三条天皇の母)の五十日儀(いそめぎ、生後五十日のお祝い)に、折櫃(おりびつ、木箱に盛って飾り付けたご馳走)を献上している。
その派手やかさを実資は「尽善尽美」と評している。

上野・常陸など東国受領を歴任した頼信の場合、道長への5匹・10匹単位の献馬が目立つ。

長和元年(1012)6月、病に苦しむ道長の身辺を不吉なことが次々と襲い、皇太后宮(道長娘彰子の住む枇杷殿(びわどの)・道長邸・頼通邸、そして頼光・頼親ら道長に親しく仕える人々の邸宅に虹が立った。陰陽師は「虹の怪、はなはだ不吉」と占った。
道長の権勢と道長に追従する近習たちの横柄さを不快に思う人々は、それみたことかと快哉を叫んだ(『小右記」)。

頼光・頼親・頼信の源氏三兄弟はいずれも道長近習の家人だった
彼ら三兄弟の子孫たちはその後も摂関家との主従関係を保ち続ける。
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9月21日
・大宰大弐平親信は、左大臣藤原道長に対して、宋商人周文裔来着の解文と、入唐僧寂照の消息書、「天竺観音一幅」、「大遼作文一巻」などを送る。
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11月
・大嘗会が行われる
大嘗祭御禊。
女御代は、本来幼少の天皇に女御の代わりとして供奉する女性である。
ただつき従うだけで、御禊自体には関与せず、儀式においてあまり意味はない。
三条天皇のこの年以降、女御代には大臣の娘をあてる慣例ができた。

大嘗会御禊については、『栄花物語』「ひかげのかづら」 が、
「女御代には、大殿の尚侍の殿(威子)出でさせたまふ。女御代の御車二十輌ぞあるを、まづ大宮(彰子)より三つ、中宮より三つ、車よりはじめて、いといみじうののしらせたまふ。」
と道長の娘たちが車を奉り(道長家から9両、公卿たちが11両用意した)、それらは屋形を造って檜皮をふき、また唐土の船の形で女房の袖の模様をそれに合わせたり、また女房の衣装はどれも15枚を重ねているなど、「過ぎにし方はいはじ、今行く末もいかでかかることはと見えたり」と描写している。

『御堂関白記』も、この時の御禊の装束や車の様子を異例といっていいくらい詳細に記述している。
「風流詞を以て云ふべきに非ず。末だ見ざる所なり。日耀(かがや)き心迷ひ、書き記すべきに非ず」
と、自画自賛である。
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12月
・尾張国の百姓が国守藤原知光の善状(善政を褒め称えた上申書)を奉る。
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12月
・この月、源道方が参議に任じられ、公卿が21人となる。
「公卿廿(にじゆう)人を過ぐる事、宜しからざる事なり。然れども申す所その理有り。下﨟を以て不覚に前に任ぜられ、その愁ひ尚は身に留むと。また参議多く書読せざる者有り、定の間見苦しきこと事に触れて多端」と、それなりの理由を日記に記している(『御堂関白記』)
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12月25日
・長和に改元。
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