東京 北の丸公園
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(49)
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その7)
ピノチェトの新しい有効な戦術:「行方不明」戦術
ブラジルで新たに機密解除された資料によれば、アルゼンチンの軍将校たちは一九七六年のクーデターを準備するにあたって、「チリに対して向けられたような国際的な抗議運動が起きることを回避」したいと考えた。
そのためには、国民を抑圧する戦術を控えめにする必要があった。
恐怖を広めつつも詮索好きな世界のメディアの目に留まらないようにするということだ。
チリではやがてピノチェトが、人々を「行方不明」にする戦術を取る。
公然と殺害したり逮捕するのではなく、反体制派の人々を拉致して秘密の収容所に連れて行き、拷問を加え、多くの場合殺害するのだが、表向きは何も知らないと言い張るのである。
殺害後、遺体は集団墓地に投棄された。
一九九〇年五月に設置されたチリの真美和解委員会によれば、遺体のなかには「浮き上がらないように、まず腹部をナイフで切り裂き」、それから秘密警察がヘリコプターに乗せて海に投げ捨てたものもあった。
こうした「連れ去り」戦術は目立たないだけでなく、社会に恐怖を行き渡らせるうえでも公然と行なわれる虐殺より効果的だった。
国家機構が人々を跡形もなく消してしまうということほど、国民を不安に陥れるものはなかったのだ。
アルゼンチン軍事政権下での行方不明者は推定3万人
七〇年代半ばには、誘拐は南米南部地域のすべての軍事政権にとって第一の選択肢となる。
なかでもこの方法を誰よりも熱心に推し進めたのが、アルゼンチンの大統領官邸に陣どる将軍たちだった。
アルゼンチンの軍事政権下で行方不明になった人の数は三万人に上ると推定され、チリの場合と同様、空中から濁ったラプラタ川に投棄された遺体も少なくなかった。
アルゼンチンの軍事政権は、公開された恐怖と非公開の恐怖のバランスを絶妙に保つことに長けていた。
何が起きているかをすべての人に知らせるために公開の場で十分な恐怖を実施する一方で、常に事実を否定できるように秘められた部分も残しておくのである。
同国の軍事政権は発足直後、殺害も辞さないことを示すドラマチックなデモンストレーションを行なった。
フォードファルコン(秘密警察の車として悪名高かった)で連れてこられた男性が、ブエノスアイレスの象徴的建造物である高さ六七・五メートルの白いオベリスクに縛りつけられ、人々の目の前で機関銃で射殺されたのだ。
その後、軍事政権による殺害は暗々裏に行なわれ、常に絶えることはなかった。
拉致による連れ去りは表向きは否定されていたものの、公然と行なわれるその様子は地域の住民たちを沈黙の共犯者にした。
除去すべき人物に狙いが定められると、その人の自宅または職場に軍用車の一団がやってきて周辺を封鎖する。
上空をヘリコプターが旋回することもしばしばで、まさに白昼堂々衆人環視のもと、警察宮や兵士が扉を壊して標的となった人物を引きずり出す。
その人物は多くの場合、連行されたことを家族に知らせようと自分の名前を叫びながら、待機していたフォードファルコンに無理やり乗せられる。
さらに大胆な「秘密」工作としては、混雑した路線バスに乗り込んだ警官が乗客の髪の毛を引っ張って連行したり、サンタフェ市では結婚式の当日、祭壇の前に立つカップルが参列者の目の前で拉致されたことまであった。
市民に伝わる恐怖は連行の時点だけにとどまらない。捕らえられた者はアルゼンチン国内三〇〇カ所を超える強制収容所に連行される。
収容所のなかには人口の密集した住宅地にあるものも少なくなく、なかでも悪名高いのはブエノスアイレスの目抜き通りに面した元スポーツクラブの建物や南部の都市バイアブランカの中心部にある学校の校舎、そして実際に使われている病院の一部などだった。
これらの強制収容所では早朝や深夜、軍用車がスピードを上げて出入りしたり、建物の中から悲鳴が聞こえたり、人の形をした奇妙な荷物が運び込まれたり、運び出されたり、といったことが近隣の住民によって沈黙のうちに見聞きされていた。
ウルグアイ
ウルグアイの軍事政権の鉄面皮ぶりもアルゼンチンと似たりよったりだった。
同国の主要な強制収容所のひとつは、かつて散歩やピクニックを楽しむ家族連れで賑わった首都モンテビデオの海岸椚いの遊歩道に隣接した海軍の兵舎に設置された。
人々は悲鳴を耳にするのを嫌い、独裁政権の間、風光明媚なこの一帯からはすっかり人気が途絶えた。
「誰にも否定できないことを、私たちは知らなかった〔ことにした〕」
アルゼンチンの軍事政権は、殺害後の遺体処理にきわめてずさんだった。
田園地帯を散歩していて、ろくに土をかぶせていない集団墓地に行き当たったり、公共のゴミ捨て場から遺体や指、歯などが見つかったり(今日のイラクでは同様の事態が起きている)、ラプラタ川の川岸に遺体が打ち上げられたりした。
遺体が空中から投げ捨てられたあとなどには一度に五、六体打ち上げられることもあったし、ヘリコブタlから農家の畑に遺体が雨あられと降り注ぐことさえあった。
すべてのアルゼンチン国民はなんらかの形で同胞の失踪を目撃していたのに、大部分の人々は何が起きているか自分にはわからないと主張した。
この時期、多くの人々を支配していた精神状態- この目で見て知っていながら恐怖に目をつぶるという矛盾した状態 - を、アルゼンチン人は次のような言い方で表現する。
「誰にも否定できないことを、私たちは知らなかった〔ことにした〕」と。
コンドル作戦
反体制活動家はしばしば近隣諸国に逃げ込むことがあったため、この地域の軍事政権は互いに協力して、悪名高い「コンドル作戦」を展開した。
この作戦のもと、南米南部地域の国々の情報機関は、アメリカ政府から提供された最先端のコンピューターシステムを使って「危険分子」に関する情報を共有し、相互の工作員が国境を越えて誘拐や拷問を実行できるよう安全に通過させた。
これは今日のCIAの「特例拘置引き渡し」と不気味なほど類似したシステムである。
*「コンドル作戦」はヒトラーの「夜と霧作戦」をモデルにしたものだった。一九四一年、ヒトラーはナチ占領下の国々におけるレジスタンス活動家をドイツに連行し、「闇と霧に紛れて一夜のうちに消せ」と命令した。何人かのナチスの元高官が戦後チリとアルゼンチンに亡命しており、彼らが南米南部地域の情報機閲にそのノウハウを数えたのではないかとの推測もある。
各国の軍事政権は、捕らえた者から情報を引き出すのにもっとも効果的な方法についても情報を交換した。
クーデター直後にチリ・スタジアムに連行され拷問を受けた複数のチリ人は、拷問室にブラジル人兵士がいて、もっとも科学的な苦痛の与え方について助言していたという、予期せぬ事実について証言している。
CIAの関与
この時期、軍事政権間にこうした協力が行なわれる機会は無数にあり、そのなかにはアメリカを経由しCIAが関与していたものも少なくなかった。
一九七五年、チリへのアメリカの介入について調査していた米上院委員会は、CIAがチリ国軍に対して「破壊活動を制圧する」方法に関する訓練を提供していたことを突きとめた。
ブラジルやウルグアイの警察にアメリカが尋問技術を伝授していたことにも、多くの裏づけがある。
一九八五年に出版されたブラジルの真実和解委員会の報告書『ブラジル ー 二度とくり返すな』に引用されている法廷証言によれば、軍の将校たちが軍事警察で開かれた「拷問クラス」に参加し、さまざまな拷問方法を紹介するスライドを見て学習していたという。
こうしたクラスでは拘束された政治犯を使った「実演」が行なわれ、一〇〇人にも上る軍曹たちは残忍な拷問の様子を見ながら学習した。
報告書によれば、「この方法をブラジルに紹介した最初の人物の一人はアメリカ人警察官ダン・ミトリオーネである。
ブラジル軍事政権の初期、ブラジル南東部ベロオリゾンテの警察の指導にあたったミトリオーネは街頭から物乞いを連れてきて拷問の実演を行ない、地元警察に肉体と精神の究極の矛盾状態を作り出す方法を教えた」。
その後ミトリオーネはウルグアイでも警察官の訓練に携わったが、一九七〇年、彼が拷問訓練に関与していたことを暴露する作戦を展開していた左翼ゲリラ組織トウパマロスによって誘拐、殺害された。
彼に指導を受けたかつての生徒の一人によれば、ミトリオーネはCIAマニュアルの著者と同様、効果的な拷問はサディズムではなく科学だと強調し、「的確な苦痛を的確な量、的確な個所に」が彼のモットーだったという。
* コスタ・ガブラス監督の傑作『戒厳令』(一九七二)はこの事件をモデルにしている。
CIAのマニュアル通りの拷問
こうした訓練の結果は、この暗黒の時期の南米南部地域における人権に関するあらゆる報告書に明白に表れている。
そこには「クバーク・マニュアル」に体系化された方式の特徴(早朝の逮捕、頭巾をかぶせる、極度の孤立状態、薬物の使用、強制的に服を脱がせる、電気ショック)がくり返し指摘されている。
さらに、意図的に退行症状を引き起こすマギル大学での実験の恐るべき遺産が随所に見て取れる。
チリのナショナル・スタジアムに連行されたのちに解放された人々によれば、明るい照明が二四時間消えることなく、食事の順序は意図的に変えてあるようだったという。
拘束された人の多くは頭にすっぽり毛布をかぶせられ、目や耳を塞がれた状態に置かれた。
こうした操作の結果として、彼らは昼と夜の区別ができなくなり、クーデターとその後の逮捕による衝撃とパニックは大幅に増大したと報告している。
まるでスタジアム全体が巨大な実験室に姿を変え、拘束された人々は奇妙な感覚遮断実験の実験台にさせられたかのようだった。"
CIAの実験をより忠実に再現したのは、チリの秘密収容所ビジャ・グリマルディだった。
ここには「「チリ・ルーム」と呼ばれる木製の独房があることで知られ、この独房は人間一人がひざまずくことも(横になることも)できないくらい狭かった」。
ウルグアイのリベルタ収容所の独房は「ラ・イスラ(島)」と呼ばれ、窓のない狭い独房は常に裸電球で照らされていた。
重要人物と目された拘束者はここで一〇年以上にわたり、完全な孤立状態に置かれていた。
「次第に自分がもう死んでいるんじゃないか、ここは独房ではなく墓の中なんじゃないか、外の世界など存在せず、太陽なんて作り話だ、と思うようになっていった」と、ここに一一年半収容されていたマウリシオ・ローゼンコフはふり返る。
彼が太陽を見たのはその間にたった八時間だけだった。
極度に感覚を遮断された結果、彼は「色を忘れてしまった - 色などというものは存在しなくなっていた」と述べている。
* リベルタ収容所の運営者は行動心理学者と緊密に連携し、拘束者一人ひとりの心理的特性に人目わせた拷問技術を考案した。
これは現在、グアンタナモ収容所で採用されているやり方である。
(略)
南米南部地域で拷問を受けた人の正確な数はわからないが、おそらく一〇万~一五万人ほどと推計され、そのうち数万人が殺害されたと考えられる。
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やりきれないけれどホントにあったこと
ご参考
地球人間模様 「五月の広場」の女性たち
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