2012年11月6日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(50)「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その8)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(50)
 「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その8)

困難な時代の証人
アルゼンチンのジャーナリスト、ロドルフォ・ウォルシュ場合
この時代に左翼的な思想を持つことは、国家に追われることを意味した。
国外に亡命しなかった者にとっては、まさに分刻みで秘密警察の一歩先を行くこと(安全な隠れ家、盗聴されないための電訪コード、偽名)に奮闘する日々だった。
そうした生活を送った一人に、アルゼンチンの伝説的な調査報道ジャーナリスト、ロドルフォ・ウォルシュがいる。
社交的な教養人であり、推理小説や賞を受賞した短編小説の作家でもあるウォルシュは軍の暗号を解読し、スパイを偵察する能力に長けた秀逸な探偵でもあった。
彼の最大の功績は、ジャーナリストとしてキューバに滞在中の一九六一年、CIAのテレックスの傍受・解読に成功し、ビッグス湾侵攻作戦の情報を事前にキャッチしたことだ。これによりカストロ議長は、侵攻を迎え撃つ準備をすることができたのである。

その前のアルゼンチン軍事政権(一九六六〜七三)がベロニスモ(ペロン主義)と民主主義を弾圧にかかると、ウォルシュは武装ゲリラ組織「モントネーロス」に情報の専門家として参加し、その結果、軍事政権の最重要指名手配犯となる。
そして新たな失踪者が出るたびに、その人物から牛追い棒によって引き出された情報をもとに、ブエノスアイレス郊外の小さな村にある隠れ家(彼はそこにパートナーのリリア・フェレイラとともに潜んでいた)が警察に突きとめられるのではないかとの恐怖に怯えることとなった。

* モントネーロスは一九六六年に成立した軍事政権に対して抵抗するため結成された。
同政権でベロニスモは禁止され、フアン・ペロン前大統領は亡命先から若い支持者たちに向けて、武装して民主主義を取り戻すために戦うよう呼びかけた。
こうして一九六九年に結成されたモントネーロスは(武装攻撃や誘拐なども行なったが)、一九七三年にベロニスタの候補者を立てた民主的な選挙を実現するにあたって重要な役割を果たした。
ペロンは大統領復帰を果たすが、モントネーロスが大衆から支持されていることを脅威に感じ、右派の暗殺部隊にモントネーロスを標的にするよう促す。
その結果、(モントネーロスをめぐつては多くの議論があるが)一九七六年の軍事クーデターの時点でその勢力はかなり弱体化していた。

ウォルシュはその広範な情報ネットワークを駆使して、軍事政権の犯した多くの犯罪を暴こうとしていた。
死亡した者や失踪者、集団墓地や秘密収容所の場所のリストを作成し、敵に関する情報量の多さを誇っていたウォルシュだが、その彼でさえ、一九七七年にはアルゼンチン軍事政権が自国民に対して行なった残忍な仕打ちに愕然とする。
軍事政権の最初の一年間に何十人もの親しい友人や同僚が化の収容所で行方不明となり、二六歳になる娘ヴィッキーも命を奪われるに及んで、ウォルシュは悲しみのどん底に突き落とされた。

だがフォードファルコンがいつも周辺をうろついている状況では、静かに死者を悼むことなど望むべくもなかった。
自分に残された時間が限られていることを悟ったウォルシュは、近づきつつある軍事政権発足一周年記念日に何をすべきか決意を固めた。
政府お抱えの新聞がこぞって軍事政権が国を救ったと褒め称えるなか、彼はいかに祖国が堕落したかについて、独自の検閲されない文章を苦くことにしたのだ。
「ある作家から軍事政権への公開書簡」と題されたこの文章について、ウォルシュは「聞いてもらえる望みはなく、迫害されることは確実ではあるが、私がずっと以前にわが身に成した困難な時代の証人になるという任務に忠実に」書かれたものだと記している。

この書簡は国家テロのさまざまな手法と、それによって利益を得る経済システムの両方に対する断固たる非難の表明であり、ウォルシュはそれを過去に地下から発表したコミュニケと同じやり方で配布するつもりだった。
まず一〇部作成して、それを別々の郵便ポストから選ばれた連絡先に投函し、そこからさらに広く配布してもらうというやり方である。
「あのクソったれ連中に僕がまだここにいることを知らせてやりたい。まだ生きて書いているんだぞってことを」と、ウォルシュはオリンピア製のタイプライターに向かいながらリリアに話した。

書簡は軍事政権の恐怖作戦についての記述から始まる。
「終わることのない、現世離れした極限までの拷問」が用いられ、アルゼンチン警察の訓練にCIAが関与していたこと、そして拷問の方法や集団墓地に関する耐えがたいほどの詳細にわたる描写がなされたあと、ウォルシュは突然矛先を変える。
「文明社会の良心を掻き乱すこれらの出来事は、しかし、アルゼンチン国民を見舞った最大の苦しみではないし、あなた方が犯した最悪の人権蹂躙でもない。この政府の経済政策こそ、これらの犯罪がなぜ行なわれたかを説明するものであり、何百万もの人々を計画された苦難のなかに陥れるという、より重大な残虐行為そのものなのだ。(中略)ブエノスアイレスの街を数時間歩いてみれば、そうした政策によってこの都市が、いかに急速に人口一〇〇〇万の「スラム街」へと変貌しつつあるかは一目瞭然だ」

ウォルシュが言及しているシステムとはシカゴ学派の新自由主義政策であり、この経済モデルは世界を席捲することになる。
その後、新自由主義がアルゼンチンにより深く根づくに伴い、人口の半分以上が貧困ライン以下の生活を強いられることになる。
ウォルシュはそれを偶然のなりゆきではなく、計画が慎重に実行された結果 - 「計画された苦難」だと看破する。

ウォルシュはクーデターからちょうど一年後の一九七七年三月二四日付で書簡に署名すると、リリアとともにブエノスアイレスへ向かった。
二人は書簡の束を二つに分けて持ち、街のあちこちのポストに投函した。
数時間後、ウォルシュは失踪したある同僚の家族と会うために約束の場所に向かう。
だがそこには罠があった。
誰かが拷問されて情報を洩らしたために、その家には武装兵士一〇人がウォルシュの逮捕令状を持って待ち伏せしていたのだ。
軍事政権の三人の総司令官のうちの一人、マセラ海軍提督が兵士たちに「あのクソ野郎を生きたまま連れてこい。やつは俺のものだ」と命じたと言われている。
「口を割るのは罪ではないが、捕まるのは罪だ」をモットーにしていたウォルシュはすぐさま銃を抜き、兵士たちに向けて発砲した。一人が負傷し、残りの兵士たちは反撃に出た。
ウォルシュを乗せた車が海軍機械学校に着いたときには、彼はすでにこと切れていた。
ウォルシュの遺体は燃やされて川に投棄された。
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