2013年9月7日土曜日

堀田善衛『ゴヤ』(2)「スペイン・光と影」(2) 「神の栄光によってよりいっそう荒廃し・・・こういう異様な民族がほかにいたものであろうか」

9月の夏空 東京・竹橋 2013-09-03
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アラブ語に語源をもつスペイン語
「言語の問題についても、たとえば現用スペイン語の語彙のうち、一〇に一つはアラブ語に語源をもっているか、あるいはアラブ語との複合語であるということになると、・・・」"

「スペインとは何か。スペイン語とカトリック教の城壁をめぐらした「城」である・・・。」

スペインには宗教改革運動はなかった。あったのは異端審問所
「スペインには、他のヨーロッパ諸国に見られるような、長く持続した宗教改革運動はなかった。あったものは、イスラム教の追放と、イスラム教徒やユダヤ教徒に対する強制改宗と、これら被強制改宗者に対する、また近世にいたってはルター派やカルヴァン派などの新教徒運動に対する、監視機関としての異端審問所の活動である。

・・・スピノザの祖先は、イスラム王朝の下ではユダヤ教徒として平穏に、他のカトリック教徒、あるいはイスラム信仰の人々と隣りあって暮していたのである。それが、イスラム王朝によってイベリア半島の北辺に閉じこめられていたカトリック教徒が反撃に出て、国土回復運動を開始し、南下しはじめたところで、宗教的な意味でのこの擬似楽園に急変を来たしたのであった。」

「モーロ人を半島から駆逐し、ユダヤ人たちにまでカトリックへの強制洗礼を断行した。一四紀頃から、この強制洗礼によって「ユダヤ人たちをいかがわしい新キリスト教徒に仕立てはじめた」。」

マラーノ
1492年、アラゴンとカスティーリャのカトリック教徒がイスラム教徒を追放しレコンキスタを成し遂げた直後、アルハンブラ訓令を発し、ユダヤ教徒に対してはカトリックへの改宗かスペインを去るかの二者択一を迫った。例えば、スピノザの先祖はポルトガルに逃れたが、1498年には、ポルトガルがユダヤ教徒への強制洗礼を断行した。
後年、オランダがスペインから独立した際には、ユダヤ教徒は大挙してここに移った。
なお、「強制洗礼をされたユダヤ人たちは、マラーノと呼ばれた。マラーノとは、豚、あるいは汚い奴、という意である。」

異端審問所は何をしたか : 300年間に焚殺3万2千人、絞首刑1万7千人
「ある記録によれば、一四七一年に、カスティーリアのイサベラ女王とアラゴン王フェルナンドの手によって設立された異端審問所は、一七八一年までの三一〇年間に、年間平均一〇〇人を焼き殺し、九〇〇人を投獄した。合計のところで言えば、この三世紀の間に三万二〇〇〇人が焚殺され、一万七〇〇〇人が絞首刑に処せられた。そうして二九万一〇〇〇人が投獄された。」

そして、300年間に、スペインの人口は半減した(1200万人→600万人)
「人々は、新たに”発見”された植民地へ逃げ出してしまったのである。とりわけて、若く強壮な青年たちが出て行ってしまい、女ばかりがのこった。それにつけ加えて、社会のあらゆる層において有能な社会的指導者となるべき人々の多くが、聖職者として独身を強いられ、子孫をなすことがなかった。」

「また別の見方をすれば、スペインは一五世紀に、南下してイスラム王朝を地中海に追い落して、スペイン全土を一気に植民地化し、まったく同時に、その勢いを駆ってコロンブスとともに新大陸の植民地化に出て行ってしまって、出て行ったものの大部分は戻らなかったのである。そうして戻って来たものは、掠奪された金銀財宝のみであった。
・・・
そうして、この”黄金の時代”をかたちづくった黄金、新大陸からの金銀財宝は、帝国の栄光を保ち、神聖なるカトリック・ヨーロッパを保守するために、湯水の如くに使われた。それが湯水の如くに使われ、産業は衰え、しかもなお金銀財宝だけを抱えていたが故に、スペインは致命的なインフレーション現象を経験した史上最初の国となった。黄金の時代は、同時に衰退の時代のはじまりであった。」

神の栄光によってよりいっそう荒廃し・・・こういう異様な民族がほかにいたものであろうか
「一国民が、わずか三世紀の間に人口が半分になるまでに外へ出て行ってしまい、もともとごろた石だらけの荒廃した土地は、神の栄光によってよりいっそう荒廃し、しかもなお冷たい金銀財宝だけを抱えていたという、こういう異様な民族がほかにいたものであろうか。」

いったいこの国に独自な、内在する歴史というものがあるのだろうか
:外国との関連と地方差との関連
「本当にスペイン史の勉強をしていると、いったいこの国に独自な、内在する歴史というものがあるのだろうか、と疑いたくなって来ることがある。

ゲルマニアの森から西ゴート族の侵入して来た時代のスペイン、ローマ時代のスペイン、八〇〇年に及ぶイスラム・スペイン、ウィーンのハブスブルグ家と、パリのブルボン家から西欧の文化をたすさえて王朝があらわれた時代のスペイン、フランス革命とナポレオンの影の下にあったスペイン、あるいは近頃のこととして、内戦時代の、独伊、ソ連、仏英、の影響下にあった時代のスペイン ー 彼らはたえず外国の影響下にあった。歴史に期を画するような事件は、すべて外国との関連において起った。」

「これに、さらにもう一つ、先に触れた地方差の問題が、それこそ外国との関連において起って来る。たとえば、アラゴン王のフェルナンドと、カスティーリアの女王イサベラが結婚をしてスペイン統一と国土回復(再征服・レコンキスタ)をなしとげたことになっているけれども、そこにいたるまでは、カスティーリアは再征服・植民地化によってスペイン内陸に主導権をにぎって行ったのであったが、一方のアラゴン・カタルーニァ王国は、バレンシアの豊かな果実や米作のさかんな地をおさえての後に、今度は地中海へ、海上へと出て行ってバレアレス諸島やサルディニヤ島、シチリー島を手中におさめ、やがてナポリに別の王国をつくりイタリアの半分をとってしまう。これでは、この両王国が合体して統一をなしとげたとはいうものの、おのおのが志向していた心的方向は、これはまるで違うと言わなければならないであろう。」

スペイン史は断絶の連続である
「「スペインには歴史はない。……スペインの歴史の発展は、スペインの国民的な発展として現われているものではなく、つねに外部から来る衝撃をまって進行している。スペイン自体の内的発展がスペインの歴史を規定するものではない。スペイン史は断絶の連続である」という意味の、歴史哲学者のルイス・ディエス・デル・コラール氏の考えなども、すべてこの国のあり方の独自性を示しているものであろう。」
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