2020年7月8日水曜日

慶応4年/明治元年記(12) 慶応4年(1868)2月21日~30日 松平容保、会津到着、武備恭順 相楽総三、下諏訪に帰陣 彰義隊結成式 堺事件関係者11名切腹 「中外新聞」創刊 英公使パークス襲撃 上州世直し一揆     

慶応4年/明治元年記(11) 慶応4年(1868)2月16日~20日 松平容保ら江戸より帰藩 信州追分戦争(赤報隊と小諸藩兵との闘い) 松平慶永(春嶽)、東征軍の進撃停止を建白 東山道先鋒・中軍・殿軍、大垣発
より続く

慶応4年(1868)
2月21日
・土佐藩目付より堺事件司令官2・発砲者27の名前が届出られる。切腹主張。
・稲葉正邦、再び老中の職を辞する。
・彰義隊の会合、円応寺で開かれる。
2月22日
・松平容保、会津到着。27日、藩士一同に対して会津征討令が出た上は全藩一致して当たるよう述べる(武備恭順)。
・会津藩家老神保内蔵之助長子・軍事奉行添役・神保修理(30)、自刃。三田の下屋敷。長崎遊学、大隈・勝安房との友人関係を藩士に疑われ、容保に恭順を勧めたとして。
・堺事件関係者20名が切腹と決まる。司令箕浦猪之吉・西村左平次と小頭2名は免れず、残り16名を発砲したと名乗り出た25名(29-4)から、この日、藩邸内の土佐稲荷神社前で籤引きで決めることになる。
2月23日
・相楽総三、東山道総督府から下諏訪に帰陣。
留守中の追分戦争、碓氷峠撤退、金原忠蔵の等々に痛憤。一方で、様子の怪しい高島藩の抑制、次第によっては和田峠の向うに出兵している上田藩との一戦の決心、小諸藩と御影陣屋への報復、岩村田藩に拘禁されている西村謹吾、大木四郎、川崎常陸ら18名の放還などについて総督府への手続き、嘆願を行う。この頃、上田藩が間者高村新次郎・中村安兵衛を放つ。これが露見し拘禁されるが、高村は逃亡し、相楽暗殺を企て殺害される。中村は一命をとりとめる。
・この日、岩倉の間諜塩川広平は、駒込峠~中津川間、本営斥候の原保太郎・南部静太郎(後の南部甕男男爵)に会い、江戸の状況を語り、軽井沢と下諏訪の相楽総三隊の苦境を語り、救助を頼む。翌24日、塩川は、十三峠で薩州隊種田左門(後の陸軍少将種田政明、熊本神風連の際暗殺される)、有馬藤太(4月3日、下総流山で近藤勇を捕える)両人にも相楽隊の苦境を語り救助を頼む。それから御嶽まで来ると、そこに本陣が進められており、北島千太郎、宇田栗園、香川敬三、岩井数馬に会い、江戸の謀攻を語り、岩倉総督に謁するが、同行の近藤十兵衛を本営付にと願ったりしているうちに時間が経ち、相楽隊の事は云わず。
(これより先)2月14日、塩川は同志福島都三郎・近藤十兵衛を伴い、「官軍応援、岩倉公御迎え」に江戸発。17日坂本宿泊、安中藩が官軍に横川の関を渡したと聞く。18日沓掛宿泊。19日、和田峠に向う途中、偽官軍を討ちとれと農民10、20人が武士に指図されて行くのに出会う。この日は長久保泊。20日、道々、噂は偽官軍のことばかり。しかし、碓氷峠を官軍が押えたとの報が武州各藩~江戸に与える影響は大きく、このまま信州の一小藩に彼らを討たせたくないと感じるようになる。この日は下和田泊。21日、和田宿には上田藩兵ら300が集結。和田峠を下り下諏訪近くで、赤報隊の竹貫三郎(24、秋田出身、別名菊池斉)・伊達徹之助(紀州出身、前名戸田恭太郎)と会い、赤報隊の下諏訪集結を忠告。
・彰義隊結成式。
浅草東本願寺で発会式。参集130余。「尊王恭順有志会」の看板を掲げる。3日のうちに300超。衆議により彰義隊と命名。頭取渋沢成一郎(一橋家家臣、のち脱退)、副頭取天野八郎(成立すぐに渋沢・天野は仲間割れ)。彰義隊を征討軍に備えるものと解されることを恐れた幕閣は、江戸市中取締まりを命じる。勝海舟は解散を勧告。
2月12日、一橋家家臣渋沢成一郎や天野八郎ら同志17人が、雑司ヶ谷の茗荷屋に集まり、慶喜の冤罪をすすぐ相談を行う。その後会合を重ねるごとに同志は増え、22日には67人となる。最初この集団は「尊王恭順有志会」といい必ずしも反政府的立場を明らかにするものではないが、次第に「薩賊」討伐を主張するようになり、諸藩の脱藩士ら不満分子が加わり隊員は増加。江戸城を管理する松平斉民(前津山空、前将軍家斉の子)は彼らの懐柔と利用を考え、隊名を公認し江戸警衛に当らせる。これより彰義隊は、慶喜護衛を名目に上野に移って気勢をあげ、江戸開城後はしばしば政府軍兵士と衝突し、江戸における反政府軍の拠点となる。
渋沢・天野が権力闘争により自陣営を増やす為、隊士数は増加し、手狭となった浅草本願寺から上野寛永寺(4月11日、慶喜は上野寛永寺を退去)を本拠にする。渋沢は、慶喜が退去した以上江戸に留まる意味は無いと、振武軍を結成し飯能方面に去る。天野が彰義隊の独裁権を持つ事になるが、委任された治安維持活動を積極的に行い、江戸市民からの人気は高くなり、これに伴い彰義隊志願者は益々増加し3千超の大勢力となる。
・九州鎮撫総督沢宣嘉・参謀井上馨、長崎着。沢、外国事務総督兼長崎裁判所総督。
・堺事件関係者11名、切腹。堺妙国寺。実務は五代友厚が取仕切る。千余が寺を取巻く。前日20人を籤で決め、当日、9名はフランス側より助命。11名はフランス側死者の数と同数であり、残酷な応報主義として外交団の中では評判悪し。助命9名は芸州・肥後藩預かりとなるが、懇切な待遇を受ける。
・新政府機関誌「太政官日誌」創刊。
2月24日
・アンドルー・ジョンソン大統領の寛大な南部政策に下院が告訴。大統領弾劾裁判開始。
・総督府、薩・長・因・土・大垣5藩に赤報隊厳重処理命令。
・「中外新聞」創刊。
2月25日
・英エドワード・ダービー首相(60)引退。ベンジャミン・ディズレー保守党内閣成立。
・土佐藩主山内豊範、フランス艦ヴェニス号に赴き、堺事件につき謝罪。前日24日、外国督議定山階宮晃親王が同じくヴェニス号で謝罪。
・新撰組、慶喜の警護終了。
・勝海舟、新しい役職「軍事取扱」に任命。
・薩摩藩、赤報隊相楽総三に3ヶ条の約定書を渡す。①天皇に迷惑かからぬよう、②粉骨砕身ご奉公せよ、③金穀は総督府から下すので安堵せよ。前日、総督府から断乎厳重処分の命令を受けたにも拘らず。
約定書の薩摩藩署名人:池上四郎右衛門(貞固、明治10年9月24日、西南の役の薩軍5番大隊長として戦死、36歳)、②南部静太郎(南部甕男、大正12年9月10日没、79歳)、③山下助左衛門、④原保太郎(原保太郎、昭和11年11月2日没、89歳)。
・堅甲会会東(会頭)石阪晩翠(昌孝)、図師・下小山田・上小山田の有志に武装着陣の檄文。参謀児嶋為政・若林有信、助力橋本清淵・薄井盛恭ら。甲陽鎮撫隊と呼応して新政府軍の東征阻止を図る。
2月26日
・土佐藩佐々木三四郎、長崎裁判所参謀助役就任。
・総督府の斥候命令により、早朝、赤報隊伊達徹之助・と藤井誠三郎と総督府南部静太郎・原保太郎が佐久へ向かう。
・新徴組1番組分部宗右衛門以下組士・家族80人と2番組山口三郎以下沖田林太郎ら組士・家族85人の総勢165人と人足100人、庄内鶴岡に向い江戸発。
・左大臣九条道孝、奥羽鎮撫総督に任命。奥羽鎮撫総督軍が編成。
・広沢真臣・木戸孝允、徴士辞退の歎願書提出。朝臣よりも藩士を選ぶ。半年後には一変する。
・仙台藩士大条孫三郎、藩主伊達慶邦名の太政官宛建白書(薩長政府の朝敵征討策への批判)を持って入洛。京都屋敷の執政三好監物は内容を見て既に時機遅れと判断、握りつぶす。
2月27日
・青年公卿清水谷公考・高野保建、京都の新政府に蝦夷地鎮撫に関する「建議書」提出。
建議書は、北蝦夷地(樺太)までを踏査しロシアの脅威を肌で感じ蝦夷地開拓による国力強化を唱える岡本監輔らの建策によるものといわれ、蝦夷地は敵対勢力(庄内・会津藩等)の温床となる恐れがあり、ロシア南下の危険性もあり、多大な漁業の利を見込める地なので、早急な鎮撫使派遣を懇願するもの。
・新徴組3・4番組、鶴岡に向かって江戸を離れる。
・相楽総三、岩倉東山道総督の下諏訪入りの為、陣を下諏訪より2里弱の樋橋へ移す。但し、総督府の下諏訪入りはなし(相楽らの下諏訪からの追い出しが目的)。移動した人数は125人だが、脱走多く、間もなく57~58人に減る。
2月28日
・薩摩藩・大垣藩の兵、下諏訪着。
・英仏蘭公使、大坂発。/29.入京。ロッシュ、相国寺入り。
・新撰組、甲州出陣手当支給(沖田に10両、宮川信吉の霊前に50両、近藤留守宅に300両等の諸支払い)。近藤勇、甲州に向かう前に沖田総司を見舞う。
・小栗上野介忠順、上州群馬郡権田村(現、倉渕村)へ向かう。
2月29日
・東山道軍、下諏訪西方の本町で板垣退助隊を甲州街道へ分派。
・樋橋村の相楽の陣に西村謹吾・大木四郎ら18人が岩村田藩より戻る。夜、総督府より樋橋村に使者、軍議のためとし呼出す。大木四郎(20)が同行。下諏訪総督府で捕縛。
2月30日
・仏公使ロッシュ・蘭公使、参内。
・(新3/23)英公使パークス襲撃(京都)。参内途中。護衛70人。犯人三枝蓊・朱雀操の2人。パークス、サトウ無事。騎馬兵9と士官1人と薩摩藩士負傷。後藤象二郎、朱雀斬殺。パークスは3月3日改めて参内。三枝は大和の僧侶、天誅組・鷲尾侍従の高野山挙兵に参加、27日に十津川郷士より親兵に編入されたばかり。朱雀も同様に親兵。
・近藤勇、若年寄となり大久保大和藤原剛を名乗る。
・堺事件で最後に助命された9名に朝廷御沙汰がでる。3月14日、長堀より乗船、16日、浦戸着。親族預かりとなるが、5月21日、朝廷沙汰の流罪が言い渡される。
2月下旬~4月
・上州世直し一揆。
村役人・商人の家を焼き打ち、不正村役人の罷免、公選を要求、質地の無償返還を求める。上州全域を襲う。江戸時代では例外的な家屋放火、公用帳簿焼き捨て。新政府軍は一揆指導者多数を斬首刑とする。
上野緑野郡吉井宿の打毀し始まり、上州一円に展開、4月には下野に波及。吉井宿打毀しの直接の契機は、関東取締出役の農兵隊取立用金命に対する反対であるが、騒動の主題は、村役人・豪農商の不正利得追及と貿地証文借金証文の破棄、貿地質物の返還、米価引き下げ、窮民救済に移る。この要求主題の転換が、この騒動の全上州的規模への展開の重要な要因となる。ここでも、焼き打ちを手段とする動員強制が村毎に行なわれ、動員と打毀しと金品強請とを正当化する論拠として、「世直し大明神」が登場する。また、騒動が、異常な物価(米価)騰貴によっであり、その騰貴が直接に貿易の展開と結びつけられており、この騒動も、排外的な性格を色濃くもっている。騒動は、諸藩兵・草莽隊により鎮圧されるが、4月2日~下野宇都宮周辺、4日~真岡周辺に騒動が始まる。
宇都宮周辺の騒動は、助郷課役減免要求を機にしているが、上州と全く同様の要求を主題とし、困窮者救済の為の「世直し」として動員強制・強請・打毀しを展開した。打毀された岩原村家主ら6人は、打毀し農民は近村の百姓で、「組合近所」の者ではないとしており、上州と同様に村外農民による打毀し・強請が示される。また、上州でもそのように推定されるが、下野では明確に騒動の頭取に博徒態の者が登場。しかし、頭取が「不正」に強請して私腹を肥やのが霧顕したり、質物・借金証文を提出して話しがついた豪農へ、頭取が更に金策強請を行ない騒動の掟に背いたため、これら頭取は最後の段階で「一揆仲間」に殺される。西上州の騒動は、中途から「愛憎ニ寄打潰」になったと云われるのも、同様な事情であろう。
頭取打殺で終る下野の騒動は、続いて小前騒動を惹き起す。下南摩村の騒動では村内での米金施与と貿地借金の半金免除を要求し、下沢村の騒動でも質地・質物・借金問題等をめぐる要求が出され、何れもこの年、栃木陣屋・宇都宮出役に出訴される。これらの上野・下野の農民達は、その生産活動が貿易と結びついており、貿易に基因する経済的影響の大きさが窺える。1867~68年、生糸輸出量は1.6倍に増えたが、これが、却って半プロレタリア層を窮乏に陥入れていくような商品生産構造を、わが国の輸出向産業はもっていた。
つづく


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