2020年8月2日日曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その10)「震火災で横浜では神奈川警察署だけが辛うじて焼け残ったが其の管内の混雑は悲絶を極め二日朝から伝へられた流言で自警団の不統一は言語に絶し日中は横濱倉庫や各商店の掠奪を恣にし、夜は通行の労働者等を惨殺し2,3,4,の三日間に50余名を惨殺し死体は鉄道線路並に其の付近に遺棄されてあった、殊に某会社の雑役夫80余名の如きは殆んど一夜に全滅するの惨状を呈した」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その9)「十人ぐらいの人が、火消しのとび口を人の体に突き刺して連行しているのを見ました。悪いことをしたかどうかもわからないのに、朝鮮人だということで、そんなことをする人もいることを知って、がく然としました。ただただびっくりしました。そのことは気持ちのなかに、あとあとまで残りました。」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(3)橘本町二丁目、宝町、浅野船渠埋立現場付近
①斉藤新次(浅野造船所)「埋立工事の多数の朝鮮人一夜に虐殺される」
朝来の雨も名残りなく晴れて、紺碧の空高く、貧乏人の私達にも思ひ切って大きな呼吸のできそうな九月一日、あんなおおきな洗礼を受け様などとは、全く誰が思って居ましたろう。
「革命」って言葉をよく見聞きしましたが、それを思ひ浮かべつつ、惨禍の巷を走り回った自分の姿を、今でもはっきり書くことが出来るのです。当時山の内町の埋立地と浅野船渠との中間に造函船渠を建造すべく百余名の朝鮮人人夫と共に、その調整に余念なかった私は、締切結界懐に依る奔流と地面の亀裂とに極度の脅威を感じつつ、兎に角夫々避難を完うしました。
もう一人、ばっちです。
事務室の重要書類と、私の全財産(と云っても行李一つですが)とを背負った私は、線路伝ひに高島駅へと向ひました。
火の海、イヤイヤそんな沈腐な言葉で形容出来ませう。私達には到底尽し得ぬ凄絶光景です。
何処をどう走ったか、全く私達は夢中でした。神奈川のとある寺院の境内に迷ひ込んだ私は、住職のお情けの握り飯に、生まれて初ての野宿にも、既に空虚の心裏には、何の涙もありませんでした。
その次の日の出来事でした。
何せあの大袈裟な朝鮮人騒ぎ「そんな馬鹿な」とは思い乍らも、矢張り少からず恐怖に襲はれて居りました。
放火・強盗・毒薬・追う人・追はれる人、正に剣戟の巷です。ふと自分達の使って居た忠実な鮮人達に思ひ及んだ私は、ある不吉な予想に、思はずぞっとしてしまひました。
「何」っていふ目的ではなかった様です。慌しく行き交ふ人々の間を、山の内へと出かけた私は、予め予期した恐ろしい幾多の事件に打つ突かりました。
恐る可き人間の残忍性、それは遂に尼港〔ニコイエフスク〕の露助〔ロシア人〕も此処のこのジャップも共通でした。
と其の時です。「Sさん」って云う癇高い声、それは李根榮君ではありませんか。その時私は不意に敵にでも襲れた様な、どきっとしてしまったのです。
「一生貴君に奉公します。どうぞ助けて。」かれは手を合せて居りました。全く夢です。
二人は草叢から倉庫の影へと、そして埋立を事務所へと一気に飛んで行きました。
勿論既に荒された事務所はカラッポです。それでも昨日の昼まで、私の住家であった宿直室の押入れに、古いセルの着物のある事を忘れては居ませんでした。伴天の李根榮を、着物の李根榮に、そして私達は敵の間を縫はねばならないのです。
私はもう鮮人でした。死生の岐路に立った総ての恐怖に激しい胸の鼓動を感じ乍ら、でも出来る丈落付いて、さて高島町へと向いました。(高島町には内務省横浜土木出張所がある)幸に日本語に巧みな李〔根榮〕でも、どことなく締まりのない顔は、亦止むを得ないのです。第1の哨戒線(というのも変ですが)は、先ず無事に通過しました。私達は常に日本語で話し乍ら歩きました。
第2の哨戒線も、難なく通過して約5分間、「待てッ」という鋭い声、私達は息付く暇も与えられずに、すくんで失ひました。伝家の物らしい細身の業物、トゲトゲしい青竹槍、さては銃剣、6~7人も居りましたろうか。李の顔にはもう血の気はありませんでした。恐らく私だってもそうでしたろう。激しい訊問と前後して、私も李も目もくらむ程撲られました。李の間のろい顔、それから桁丈の合わぬ着物、問答は少しも記憶ありません。ただ李が役所の小使である事を極力力説した筈です。その間時折「殺してしまえ」という悪魔の叫びです。竹槍、抜身、それよりもどれだけ此声を恐れたでしょう。
小1時間の後役所の門に馴染の工夫人夫に迎えられて「御無事でしたか」といはれた時、違った意味の嬉しさから、急に暗い気持ちになって、瞼の裏が泌々熱く、遂にポロポロ泣いてしまいました。李もやはり泣いている様です。
その後一度も上陸せずに暮らして居たのですか、間もなく迎へに来た叔父と、一と先ず朝鮮に帰りました。
十八の若者でしたから、今年はもう20歳。
年賀状と時候見舞は、今でも呉れます。その度毎に恐ろしかったあの日を思ひ出してしまふのです。微笑む気にはどうしてもなれず、結局ないてしまふのです。
李は今頃何うして暮して居ますやら。(大正14年3月31日)
(「横浜市震災誌」一九二六年所収「鮮人を保護して竹槍の中を」)
②大阪朝日新聞/山陽新聞 「雑夫一夜に全滅/略奪を恣にした/神奈川警察署の管内」
震火災で横浜では神奈川警察署だけが辛うじて焼け残ったが其の管内の混雑は悲絶を極め二日朝から伝へられた流言で自警団の不統一は言語に絶し日中は横濱倉庫や各商店の掠奪を恣にし、夜は通行の労働者等を惨殺し2,3,4,の三日間に50余名を惨殺し死体は鉄道線路並に其の付近に遺棄されてあった、殊に某会社の雑役夫80余名の如きは殆んど一夜に全滅するの惨状を呈した。  (一九二三年一〇月一八日/一九日)

③白井駒三郎「朝鮮人と言えばたたき殺す」
〔横浜浜ドックのタグボート上で被災→神奈川区星野町の石川屋回漕店事務所→河岸にあった小船上に2~3日避難〕こうして2~3日寝起きを続けている裡に、横浜一帯は石油タンクなどの爆発事故などもあって、市中はさながら火の海と化し、数万となく死傷者が発生し、地獄絵そのままの姿となった。そこへ朝鮮人騒ぎという騒動が起こり、朝鮮人とみれば叩き殺し、日本人でも言葉が少しおかしいと、そうではないかと逮捕されたり、監禁されたりした。私自身も、そのようなむごたらしい情景に二、三ぶつかったのであった。      (白井著「筏と共に五十年」日刊木材新聞社一九七五年)
(4) 神奈川県立工業学校の作文集(「神工 震災記念号」一九二四年)
電気科三年(「震災の実験」) 〔家(高島山の近く?)。隣の貸家は山崎病院の避難所になる。二日〕昼近くなると、下の道を「朝鮮人が井戸に毒を入れるから気を附けでください」とどなって歩く者がある。近所の人達は竹槍を持って朝鮮人を追ひかけまはして居る。少したつと鮮人が1人縄につながれて行く。その内にあっちで1人殺されたの、こっちで殺されたものと人々のまちまちな流言は頻々として伝はる。暮方近く又1人巡査に連れられて通る。きっと警察につれて行かれるのだろう。夜に入ると夜警事務所では「川崎方面から横浜へ鮮人八十名火を放ちに来る」と言っている。人々は非常に恐れ、どこの家でも逃支度をしている。僕はその夜も夜警に出た。時々、「ドーン」「ドーン」と銃声がする。横浜地方の空は紅い煙が空を覆うている。「ワー」と言ふ喊声にいよいよ押寄せて来たものかとさへ思った。

つづく


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