より続く
慶応4年(1868)
5月23日
・小田原藩問罪使(参謀河田左久馬)、長因藩士約1千、先鋒山国隊、江戸城発。24日藤沢、25日大磯、26日小田原城下着。小田原藩主大久保忠礼、謝罪降伏恭順。27日、因幡本隊、箱根湯元の幕軍破る。6月5日、小田原発。8日、江戸因幡藩屋敷着。
27日の箱根湯本山崎の合戦。伊庭八郎(26)、左腕を切り落とされ、太股3ヶ所撃ち抜かれ、敗北するも逃走。明治2年5月13日、函館戦争で戦死。
・米沢藩本隊、越後に向けて出発。軍事総督(家老)千坂太郎左衛門高雅。長岡城に着く前に長岡城は落城。
24日、千坂は会津の松平容保を訪問。ここで軍事顧問ヘンリー・シュネルを知り、シュネルに越後軍参謀役を願い容れられる。27日、新潟着。
・振武軍、飯能において激戦。
・伊藤博文、兵庫県知事に就任。
・広沢真臣、京都府御用掛に就任。施政方針書「民生下手要旨書」を纏める。末端の地方行政官「民政方」設置など。
・フランス第2次インターナショナル裁判。再度インターナショナル解散と被告人に夫々3ヶ月禁固・罰金100フランを言い渡す。
5月24日
・徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)、駿河移封・70万石と発表。6月11日、徳川家、旗本に6月以降の俸禄停止、身の振り方の検討を通達。7月26日、「朝臣・御暇・無禄御共三ヶ条之内、決心心腹」を尋ねる。総計4014人が静岡へ移住。俸禄は最低限度の生活を維持できる程度(12月下旬、元高3千石以上で5人扶持、1千石以上で4人扶持、500石以上で3人扶持となる)。
徳川亀之助後見人松平斉民と田安慶頼へ徳川宗家の具体的な処置内容が伝えられる。①徳川亀之助は駿府城主とする。②石高は70万石、所領地は駿河約40万石・遠江の一部約18万石・陸奥(9月4日に三河へ変更)の一部約12万石とする。なお、旧幕臣の官位は差止められ、旗本など万石以下の領地は最寄りの府県支配とする。直領・旗本領で700万石といわれた所領が1/10分に削られる。
27日、徳川の禄を離れた人々の一覧表を提出するよう指示(5月3日に出された旧幕臣も追々新政府が雇用するという達を受けたもの、しかし、雇用枠は限られ、且つ「二君に仕えず」との意識も充満)。
6月22日、後見人松平確堂らは、徳川亀之助名で「禄を離れた旧幕臣が商人、百姓、浪人となって生活できるように」との嘆願書を提出するが、浪人身分で将来に望みをつなぐ考え方は否定される。また同日、蝦夷地開拓嘆願書を提出するが、これも許可されず。
・山内容堂、藩内の佐幕派に対し諭告文を発する。27日、野中太内、容堂の諭告に服さず自刃を命ぜられる。
・松浦武四郎、「蝦夷山川取調書」を政府に献上。
5月25日
・天童藩(前藩主は奥羽鎮撫使先導役)、庄内藩の攻撃を受け降伏。家老吉田大八切腹・列藩同盟加入。9月15日降伏。
5月26日
・奥州列藩同盟軍、白河城奪還総攻撃(第1次)。7月中旬まで続けられるが失敗。仙台、会津、棚倉、二本松、相馬藩兵が八方から進軍。雨天のため難渋。一斉攻撃できず。27、28日も分散的攻撃のみ。
・越後戦線(見附方面の攻防)。薩摩藩淵辺群平(直右衛門)・長州藩三好重臣(軍太郎)が指揮する新政府軍は、米沢藩参謀甘粕継成指揮する同盟軍に小栗山を奪回されるも、これを再度奪取。
25日、米沢軍参謀甘粕継成率いる斉藤篤信大隊・大井田修平大隊・衝鋒隊(木村大作・松田政太郎等が指揮)3隊(3中隊相当)、加茂を出発。同日夜、斉藤隊・衝鋒隊は三条東南の大崎村に、甘粕と大井田隊は大崎の五十嵐川対岸の月岡村に宿陣。26日早朝、第1陣斉藤率いる4小隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・下秀丸隊・大津英助隊)・畠山修蔵大砲隊・衝鋒隊が見附に進軍。守備する薩摩外城4番隊(中村源助)は同盟軍接近を見て小栗山に布陣するが、同盟軍は米沢軍が正面攻撃、衝鋒隊が迂回して外城4番隊を包囲し、外城4番隊は支えきれず撤退。斉藤隊と衝鋒隊は小栗山を奪回するが、弾薬を撃ちつくした為、衝鋒隊は後退し、斉藤の要請に応じ午後には大井田隊が見附に到着。新政府軍側は、薩摩城下士小銃隊10番隊(山口鉄之助)・外城3番隊(有馬誠之丞)の夫々隊・長州奇兵隊2番隊(久我四朗)・松代軍5番狙撃隊(祢津丈三郎)が援軍に駈けつけ、撤退した外城4番隊も加え小栗山を攻撃。今度は数で勝る新政府軍が優勢となり、甘粕はスペンサー銃を装備する直属2小隊(侍組精選隊須田右近隊・散兵隊浅羽徳太郎隊)を率い新政府軍側面に回り西方より射撃。新政府軍は一時は混乱するものの同盟軍側面に回りこみ、また薩摩軍の砲撃もあり甘粕隊は撃退され、小栗山の斉藤・大井田大隊も小栗山を放棄し、月岡方面に撤退。翌27日、新政府軍の一部は小栗山北東の大面村に陣地を構築し守りを固める。新政府軍の大面村占領に関し、同盟軍は軍議を行うが、米沢藩は攻勢を主張するが、衝鋒隊はこれに反対するなど紛糾。
・秋田で孤立している奥羽鎮撫副総督沢宣嘉の使者、箱館入港、軍資金・弾薬等の援助を訴える。箱館府は軍資金3千両を工面して送る。
5月27日
・土佐藩胡蝶隊隊長、朝廷政府に非協力的な容堂批判。切腹申渡し。
・新撰組島田魁負傷
・越後戦線。桑名藩隊、会津萱野隊と共に進撃。与板藩兵・長州報国隊を白兵戦で圧倒、この方面を制圧。政府軍軍監岩村精一郎指揮の長州・薩摩・須坂の政府軍が来襲。桑名隊の奮戦で西軍進撃を食い止め、与板に肉迫する地点に至るも、他の同盟軍各隊が続かず、桑名隊も後退。
5月28日
・越後戦線(見附方面の攻防)。同盟軍は小栗山・見附の奪取ならず。但し、新政府軍主力をこの戦線に拘束し、今町攻防戦の勝利に繋げる。
同盟軍の増強。会津軍朱雀隊寄合2番隊半隊(山田陽二郎)・大道寺源内率いる山形藩2小隊・砲1門が来援。また、米沢軍は加茂本陣から援軍を呼び寄せ、斉藤篤信大隊が8小隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・大津英助隊・潟上弥助隊・西堀源蔵隊・古海又左衛門隊・石栗善左衛門30匁大筒隊・桐生源作30匁大筒隊)・畠山修蔵大砲隊となり、大井田修平大隊は6小隊(増岡孫二郎・曾根敬一郎・戸狩左門・長右馬之助隊・山崎理左衛門隊・三股九左衛門隊)となり、甘粕継成自ら率いる散兵隊5小隊(須田右近隊・千坂多門隊・浅羽徳太郎隊・上野貞助隊・寺島太一隊)となる。
28日早朝、同盟軍は1陣会津軍朱雀隊寄合2番隊半隊、2陣米沢軍斉藤篤信大隊、3陣大井田修平大隊が大面村に向かい進撃。また警戒部隊として山形藩兵・甘粕継成直属の散兵隊があたる。大面村を巡り戦闘開始、激戦の末に同盟軍は大面村を占領。その後、同盟軍は小栗山と小栗山西方の指出村に布陣する新政府軍を攻撃するが、新政府軍の施条砲による反撃を受け、深夜まで銃撃戦。
翌29日早朝、米沢軍の斉藤篤信大隊・大井田修平大隊の一部が指出村に進撃を開始するが、指出村(長府軍報国隊2番小隊守備)・指出村北方の帯織村・指出村南西の片桐村(薩摩軍遊撃隊2番隊守備)守備の新政府軍が迎撃、同盟軍は新政府軍に半包囲され敗走。新政府軍はこれを追撃するが、この日戦線復帰した衝鋒隊(永岡敬二郎)が新政府軍の側面を突き崩し、野戦となる。今度は衝鋒隊が新政府軍を破り、敗走する新政府軍を追撃、新政府軍は指出村を放棄して片桐村に撤退。衝鋒隊は指出村に到着するものの、新政府軍を追撃せず指出村で略奪を開始。斉藤篤信は指出村に到着後、衝鋒隊に片桐村攻撃に参加するように求めるが、衝鋒隊はこれを拒否、斉藤大隊のみで片桐村攻撃に向かう。新政府軍はこの間に陣容を立て直し、斉藤大隊の攻撃を撃退。同盟軍は好機を生かせず。
翌30日、新政府軍・同盟軍共に積極的な攻勢はなく、銃砲撃のみ。これ以降も、新政府軍・同盟軍共に積極的な攻勢を行なわず、散発的な銃砲撃戦を繰り返すのみ。同盟軍は目指した小栗山・見附奪取は出来ないが、この見附方面の攻撃と杉沢・赤坂方面の攻撃により、新政府軍主力薩摩軍・長州軍・松代軍をこの戦線に拘束し、後の今町攻防戦の勝利に繋がる。
・仙米藩の京都邸没収、藩士の入京禁止。「朝敵」扱いとなる。
・上野戦争を避けて身をひそめていた上野輪王寺宮公現法親王、旧幕府軍艦で江戸を脱出して平潟に到着。会津藩士(公用人)小野権之丞(51)は新天皇(東武天皇)擁立構想を持ち、以後、行動を共にする。米沢藩士雲井龍雄もこの艦に同乗。6月1日、米沢帰着。
輪王寺宮:伏見宮邦家親王の第9王子、孝明天皇父の仁孝天皇の養子となり青蓮院門跡を相続。後、得度して法名を公現と称し、慶応3年上野輪王寺門主となる。故孝明天皇の義弟。
小野権之丞:後、榎本艦隊に身を投じ、箱館戦争に加わり、医師高松凌雲と共に日本で最初の公立病院・箱館病院を建設、敵味方別なく診療にあたる。
雲井龍雄:1844生まれ。14歳で藩校入校。18歳の時、実兄小島才助の養子。慶応元1865年1月22歳で江戸出府。4月安井息軒の三計塾に入門、1ヶ月で執事長(塾長)に選ばれる。慶応2年4月藩命により帰藩。慶応3年1月藩命により京都探索に上京。広沢・品川・時山・後藤・佐々木高行らと親交結ぶ。慶応3年末江戸に下り、翌年鳥羽・伏見戦争後再び上京、米沢藩代表の形で新政府の貢士となる。5月3日、京都発。18日江戸着。
5月29日
・白河城奪還戦。仙台藩兵は白河関門、会津藩兵は金勝寺と雷神山棚倉口から進撃。同盟軍、戦死者40余を出し敗退。
・板垣退助の土佐藩軍、会津戦線(白河)到着。政府軍1,500~1,600に増強。
5月30日
・新潟管理を政府から委任されていた旧幕臣(新潟奉行所組頭)田中廉太郎、預所という名目で米沢藩に新潟港を引渡す。
5月13日、米沢藩に新潟統治権を託したい考える新潟奉行所の役人増田勝八郎と米沢軍総督色部長門(13日に米沢を出陣し新津に滞陣)とが初めて接触。その後も交渉が続き、色部は武器補給地としての新潟港の重要さを考え新潟奉行所の申し入れを了承。28日夕方、色部と色部の家臣達は米沢軍本隊と別れ新潟に向い、29日、奉行所の田中と改めて会談、新潟統治権が奉行所から米沢藩に移る。
・沖田総司(25)、老咳(結核)のため没。
つづく
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