建久10/正治元(1199)年
5月1日
・定家(37)、式子に仕えている女房から、式子雑熱のことが伝えられる。雑熱とは病名の定まらぬ発熱か。
5月2日
・定家(38)、九条御堂舎利供養に参仕
5月4日
・定家(38)、大炊殿に参上すると、式子の雑熱、昨今御煩いなしということで安堵。
また、「伝聞、公朝入道・公澄等関東の事に依って勘当に処せらると。その子細を聞かず。狂勢恩寵無双のものなり。今この事有り。これ天の責めか。」(「明月記」)。
5月6日
・名医の誉れ高い針博士丹波時長が鎌倉に到着。その日は掃部頭親能の亀ケ谷のやしきに泊ったが、治療に不便というのであろうか、翌日、幕府に近い南御門の畠山重忠のやしきに移った。
5月7日
「医師時長昨日京都より参着す。」
8日「時長始めて朱砂丸を姫君に献ず。仍って砂金二十両以下の禄を賜ると。」(「吾妻鏡」同8日条)。
5月7日
・定家(38)、脚気を病む
5月10日
・河水あふれる。定家(38)、兼実の許に参上。御前にて、国行と将棊を三盤指す。
「河水大イニ溢ル。蓬屋殆ド池ノ如シ。」。八条以北では多くの人家が流された。
11日、参兼実邸。兼実は灸治。御前にて良経将棊。
12日、大炊殿参向。式子は御肩に雑熱あり。一日より大黄を止め、膏薬をつけられていたところ、叉左の御臀の下に小瘡が見出された。よって又大黄を付けられるという。この事を聞いて驚き駈けつけたが、女房は大したことはないというので帰宅。
5月16日
・丑刻、鎌倉で大地震。
5月17日
・定家(38)、遅明に京を出て日吉に参詣、宮廻りして坂を登る。祝親成は灸治中にて出て来ない。年来、時々宿すところの尼、昨日の朝死去と。健御前は常にその尼の女の家を宿所としていた。
18日、中宮に参向、良経より、宜秋門院丹後の連歌一部を給う。
「月、清明ニシテ、秋天ノ如シ」
20日、式子邸に参入。兼実の召しにより参上、御前に於て将棊。兼実は、摂政を辞めたつれづれに将棊などを見ていた。
5月22日
「人云く、前の左馬の頭隆保去る夜土佐の国に配流す。夜中出京すと。」(「明月記」)。
5月23日
・定家(38)、八条院の美福門院月忌仏事に参仕
5月26日
・夜より大雨。京市中で洪水。堀河大路などが海の如くなる。橋尽く流失。
5月29日
「今夕、姫君聊か御食事有り。上下喜悦の外他に無しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月2日
・定家(38)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
6月3日
・定家(38)、吉田社に参詣。捧物をする。快く信心を凝らし、夢想あり。
6月5日
・九条良経(兼実の子)の勅勘が解かれる。任子の再入内の議が起こるが、通親らの猛反対で実現せず。
6月11日付け良経の僧都御房(信円の弟子となった兼実の子の良円)宛て書状
良経は「去五日勅勘被免」と記し、6月5日に勅勘が解かれて左大臣となる可能性が生まれたとしつつも、「摂政与右幕下同心、被遏絶此事」と記すように、「摂政」基通と「右幕下」の右大将源通親が謀って、その望みを断ち切ろうとするならば、一大事になるとも心配しており、そのためよくよく左大臣になるように祈って欲しい、と依頼。
6月8日
・健御前に逢うため、同僚の女房たちが定家(38)邸に来訪。
10日、定家、式子邸参向。
6月14日
・姫君はまだお疲れで、去る12日からは目の上が腫れてきた。時長はよくない兆候と言う。回復の恃みは少ない。(「吾妻鏡」同日条)。
6月15日
・月蝕、巳の刻。精進をはじめるので髪を洗う。
17日、定家、日吉に参詣、夜宮廻りして通夜。
18日、暁、日吉から帰路、甚雨の間、三井寺に入り、阿閣梨坊に輿を借りる。帰って中宮の方違えに、法性寺に供奉する。
20日、因子、三条坊門に行く。健御前、八条院に出仕する。
「次第、尋常ノ儀ニアラズ、当時女院ノ御方ニ伺候スル料卜云々。籠居ノ事、女院深ク咎メ思シ食スニ依り、此ノ御方ニ許リ早ク参ズベキ由、頻リニ仰セラル」。出仕の料など賜り、手厚く迎えられた。
「巷説、頗る実事を告ぐるに似たり。又私に通するか。秘せらるるに依り聞き及ぶ事なし。世間の人々、遍に又事の由を称え告ぐと云々。実否を知らず」(『明月記』6月20日条)
人々が噂する「頗る実事」とは『愚管抄』にも「承明門院ヲゾ、(中略)アイシマイラセケル」と記される、通親と在子の「私通」をめぐるもの。
これを契機に後鳥羽院の重子への寵愛が深まる。
6月22日
・源通親、右大将はそのままにして内大臣に任ぜられる。九条良経が左大臣に任命される(政界復帰)。
通親は、政敵である九条兼実の子良経を左大臣とし、幕府の公文所別当大江広元の歓心を得るため、これを明法(みょうぼう)博士左衛門大尉に任命。これに対して藤原高能の遺臣らは反対。
通親は、院中に隠れ、能保の近親の西園寺公経・右近衛少将持明院保家・左馬頭隆保らの出仕を止め、隆保を土佐に配流、親幕派を一掃。公経は藤原定家の妻の弟、隆保は定家の姉の夫で、通親の圧迫は定家の身辺にも及ぶ。
定家は通親とも姻戚関係がある。定家の14歳上の姉の八条院三条が、藤原成親の弟盛頼に嫁して生んだ女(のち祖父の俊成に養われたため、俊成卿女と呼ばれる)が通親の子通具(みちとも)に嫁ぐ。従って、定家は通具と義理叔甥(しゅくせい)関係。彼女は通具との間に具定と女子1人を生むが、その後(正冶2年)通具は法師能円の女、土御門天皇乳母従三位按察局を新たに妻とし、俊成卿女は見捨てられた形となる。彼女は通具の計らいで、院へ宮仕えを始める。建仁2年7月13日院に参って以降、歌道に精進し、宮内卿らと並び女流歌人として一流の地位を占める。しかし、長男具定は承久元年(1219)侍従となってのちは昇進しないのに対し、按察局の子具実は弟でありながら19歳で頭中将に進み、建長3年(1251)には正二位内大臣に至る。定家は、一応は「近代之法」としてあきらめつつも、長く恨を残す。
「任大臣日なり。太政大臣頼實、左大臣良経、右大臣家實、内大臣通親、権大納言泰通・通資、権中納言實教、参議兼良、参議家経、終日御前に在り。この事を聞き及び心中欣悦す。喩えに取る物無し。」(「明月記」同日条)。
6月26日
・医師時長が帰洛。頼家から馬5頭、旅の費用や雑事、送夫20人、国雑色2人ならびに兵士を与えられる。(「吾妻鏡」同日条)。
6月30日
・乙姫(頼朝の子、15)、病没。大姫に続き、入内問題は沙汰止みとなる。急遽京都から鎌倉に帰った乳母夫中原親能は出家した。
『吾妻鏡』は政子の落胆の様を「尼御台所御歎息、諸人ノ傷嗟記スルニ遑(いとま)アラズ」と述べる。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿