正治3/建仁元(1201)年
2月1日
・宰相阿闍梨尊暁(法眼円暁の弟子)、鶴岡八幡宮別当に補任。
2月2日
・定家、30日詠進した和歌が後鳥羽院に賞されたと聞く。八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
2月8日
・『当座十首和歌会』(和歌試)
後鳥羽上皇、良経・通親・俊成・定家・家隆・寂蓮らの列席のもとで、19人の歌人による十首歌の歌会を開く。「和歌試」と称され、これにパスしたものは和歌所の設置にともなってその寄人に選ばれる。
2月9日
・定家、院と良経の君臣五十首歌合を評定
2月12日
・後鳥羽院老若歌合の奏覧。
2月13日
・「建仁」改元。
2月16日
・定家、『老若五十首歌合』。18日にも。
2月19日
・慈円、2度目の天台座主となり、吉田郡藤島荘を管轄する(「天台座主記」)。
2月22日
・城永茂(長職、50)、大和吉野で鎌倉勢と戦い討たれる。これより先、後鳥羽上皇は、京都守護小山朝政の申請により永茂追討宣旨を下付したらしい。25日、永茂らの首級の京都引き廻し、捕虜の斬首。
29日、永茂の有力な残党の平資家・資正兄弟、本吉冠者高衡も討たれる。
本吉冠者高衡:
秀衡4男。文治5(1189)年9月平泉の西木戸の自邸から脱出、下河辺町の藤原行平を通じて関東の降人となる。同12月、従兄弟の師衡・経衡と同様相模に配流。その後、配流を減じられ幕府の客人となる。永茂らの行動が失敗すると、高衡らは単独で唐橋小路の藤原範季邸に逃込み保護を求める(範季は、陸奥守兼鎮守府将軍として安元2年正月~治承3年11月在任し、秀衡・高衡と懇意であったと推測できる。
2月23日
・定家、 八条院の美福門院月忌仏事に参仕
3月10日
・卯刻地震あり。未の刻に若宮大路西側焼失。(「吾妻鏡」同日条)
3月16日
・定家、通親第影供歌合参加。勧盃、講師を勤める
3月18日
・定家、日吉社に参詣
3月19日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(~23日)。
鳥羽殿に参ず。今度は旧き水干を着すべきの由にて、丹波斑の水干、白き葛袴、白き綾衣、という出立で出かけるが、一人として旧物を着ていない。御船を釣殿に着け、御弘御所に渡る。遊女両方に参着し、郢曲・神歌了りて退下。此の間、御供の上下、皆其の近辺に候す。親疎に随いて遠近に在り。近臣等という。今夜別の事なし、明日白拍子合あるべしと。後鳥羽の遊戯人ぶりがいよいよ発揮される
3月20日
・石清水臨時祭。有道少将の子・中務権大輔が舞人を勤仕し、五位少将の子の舞人、容姿ふるまい、頗る眼を驚かす。但し定家・具親は着かず。人も招請せず。また推参せず。
水無瀬御幸。今夜白拍子合あるべしと。遊女着座し、郢曲せず退下す。白拍子・清撰十二人参ずと。一巡終り、三人替って数反舞う。今夜、雅経少将関東より帰洛、直ちに参入、布衣を着て祇候す。舞い終りて各々分散。
3月21日
・水無瀬御幸。釣殿に院出御。江口神崎の遊君各々五人召したてられ、今様各々一首を合せられる。
申の時許リに院騎馬、忠信・有雅少将同じく騎馬。自余の人、皆釣殿のあたりに在り。今日、白拍子五人、三位経仲卿を以て御使となし、相具して八幡に参ぜしむと。浄衣を着け、帰参。雅経少将、今日京を出立す。親能入道また下向すと。
3月22日
・水無瀬御幸、釣殿にて、御碁、御将棊あり。遊女参じて着す。郢曲終りて退出。又御馬、有雅・親兼・忠信等供奉、公経卿の馬に乗られた。十首の歌、来る28日に進むべき由仰せあり。有通・具親の二人甚だ疎遠、毎年未練の間、惣じて指し出でず、片角に隠れ居る。
3月23日
・定家、巳の時に参上。これより先、女房の車出で終ると。御広(弘)御所に馳せ参ず。遊女郢曲の間なり。有通・具親、女房の御供して参ず。定家・長房朝臣に触れ、御幸に参ずべきの由を答う。仍て祇候するの間に郢曲終る。乱拍子、上北面以上、皆悉く乱舞す。これ例の事と。
公卿に及び出御。桂河を渡る。朱雀より北に行き、四条を東、壬生を北、二条大宮に於て御車に移りおわしますの間、人々馬を下りる。公卿以下なお騎馬にて参ず。定家、推参を恐れるにより、家長に相触れ、止まり終って、馳せ帰る。三条東洞院にて車に乗り、家に帰って沐浴。
夕、御所に参上、夜に入りて退下。
3月24日
・千菓常胤(84)、没。
3月24日
・定家、良経邸に参向。終日見参。両公達参じ給う。夕に退下。
3月25日
・定家、慈円の報恩講に献歌
つづく
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