正治3/建仁元(1201)年
3月27日
・定家、院の尊勝陀羅尼供養あれども、「貧乏、衣装無キニ依リ、出仕スベカラザルノ由、日来窮屈ナリ。」。
今良経の御供欠如、よって参ずべき由申す。狩衣を着けて参上。仰せていう。撰歌合せに於ては、端書に位置等を書かざるの由、院の仰せあり。この事、日来知らず、不審により俊成に申す。御返事には、此の事、先達の説ありといえども、猶身は用い難きの間、定めて傍難あるか。しかれども、今の仰せもっともこれを以て証拠となすべし。「さこそは書きてあらめ」と。
御院参。定家退出して、此の間俊成の文を見る。よって書き直し、持ち参じ、右中弁に触れる。即時に和歌をつけ、進め入れ終りて退出す。
寂蓮入道の許に行き向い、この書き様を触れ終る。又密々にその歌を見る、皆以て優美なり。定家は、此の度殊に以て風情を得ず、不運の至りなり。此の歌の書き様、良経・通親・俊成・通具・寂蓮・定家という。
3月28日
・定家、良経の御供をして参院。今日左右の歌を撰せられると。左の方、弘御所の簾中にて撰せらると。良経・通親・寂蓮・家隆と。右の方、御所北面に於て撰せらる。慈円御前に候す。大弐これを読む。定家・雅経等祇候す。作者を隠して読み上ぐ。先ず合点す。ついで巻き返して合点す。歌を読み上げて重ねて、帥点を合す。同点の歌、二十八首あり。又巻き返して、今度は作者をつける。御製はなはだ多し。自余多少各々入る。仰せていう、作者各々一首は必ず入るべし。御製を出すべし。重ねて評定す。やや久しくあらそい申す。遂に御定め終る。三十六首を撰び定めらる。題毎の員数を知らず。ただ十題のうち、三十六首なり。愚詠多く御意に叶うと。「面目身ニ過ギタル者ナリ」。「生マレテ斯ノ時ニ遇フ。吾ガ道ノ幸、何事カ之ニ過ギンヤ」。左の歌、又撰じ終り、右中弁につけて奏覧。少々直され、仰せ事等あり。良経の御供して退去。時に亥の終なり。
3月29日
・定家、午の時、南殿に参ず。又良経の御供して北殿に参ず。判者俊成参入。南の釣殿廊の簾中を以て御所となす。左右の座に分かれる。定家、硯、読紙を取り、御座の傍に参上。判並に方の陳状を注し難きもこれを付く。此の事極めて以て堪えず。かたがた恥を遺すといえども、その仁に当る、勤仕すべきの由、仰せられるの条、面目身に過ぎたる者なり。先ず御座の近辺に参上す。ついで硯に水を入れ、墨を摺る。紙を巻き返してこれを置く。左右申すにしたがい、大略注し付く。小事に於ては書かず、然るべき詞等、これを書きつく。三十六番終り、作者をあらわして読み上ぐ。定家、此の間に退下。ついで講師等退下し、人々退下す。すなわち、院入りおわします。俊成すなわち退去。ついで慈円退出。昏に臨み、良経の御供して退出、帰宅。
十首の中、五首、院の清撰に入る。五首の中、月を恋うる歌、忝くも叡感に預かる。読み上ぐるの間、いずれの歌といえども、この歌にまさるべからざる由、仰せ事あり。道の面目、何事かこれに過ぎんや。感涙禁じ難きものあり。霞(勝)、月(勝)、嵐(持)、雪(負)、恋(頗るまさるべきの由、御定ありといえども、判者、左勝つ由申さしめ給う。よって負け終んぬる。左は通親の歌である。左右に及ばずと云々)。寂蓮四首入る。頭中将これに同じ。貴人達のほか、此の月数の人なし。
「寧(なん)ゾ眉目(名誉)ニアラザランヤ。和歌ノ中興ニ遇フ」。
定家の歌を、此の頃の後鳥羽院は、最も高く買っている。ことごとに褒めあげ、意見をつつまず述べるようにうながす。俊成が通親と番えられた定家の歌に、負の判をしても、後鳥羽は、頗る秀歌とほめちぎる。
4月2日
・越後より鎌倉へ、城永茂の甥資盛・叔母板額(ばんがく)の挙兵と、越後・佐渡の御家人の攻撃でも鎮圧できないとの報告。
3日、北条時政・大江広元・三善康信ら対策協議。前越後守護で上野礒部郷に篭居する佐々木盛綱を呼出し資盛を討伐させることに決する。将軍御教書が侍所別当和田義盛に下り、義盛は盛綱に使者を派遣。(「吾妻鏡」同日条)
4月5日
・和田義盛の使者、盛綱の許に到着。直ちに盛綱は発向し、3日のうちに鳥坂口に到着。盛綱はここで越後中南部・佐渡・信濃の御家人を編成、阿賀野川を渡河して進軍。盛綱は資盛に軍使を派遣、将軍御教書を伝えると、資盛は鳥坂城で攻防戦をしようと答える。
5月初め、攻城戦開始。坂額ら城兵は奮戦、攻城側に死傷者続出。先駆けた盛綱の子重季は重傷。弓名手信濃の藤沢清親が背後の高所より板額の両股を射て郎等が生け捕る。城資盛、僅かな部下を連れて逐電。
5月8、9日頃、鳥坂城落城。(「吾妻鏡」5月14日条)
源通親の妻の養父高倉範季に庇護されている藤原高衡が関係者として逮捕。九条兼実は、通親と同族(村上源氏)の三井寺の公胤も事件に関与しているとし、強引に通親を事件関係者として主張。
6月28日、板額、藤沢四郎に連れられ鎌倉入り。源頼家と対面。甲斐住人阿佐利与一義遠(53、壇ノ浦の勇士)が、頼家に坂額を預かりたい旨申し入れ、許され甲斐に下向、後妻となる(「吾妻鏡」6月28,29日条)。
承久3(1221)9月余一(71)、没。坂額のその後の消息は不明だが、娘を産み、その娘が源信継の妻となるとの所伝あり。
4月22日
・定家、鳥羽殿にて三船の催し。また、和歌尚歯会、講師を勤める
4月24日
・定家、院より明後日の歌会の歌題を賜る
4月25日
・定家、為家療病により他出せず。静阿閣梨の護身を加う。今日殊に重し。
「貧家祈禱ノ力無シ。旁々ナス方無シ。嘆キニ余リアリ」。
定家は当時の人々同様、祈禱や護身が病に効験ありと信じていた。この点、式子内親王は、実に明噺な人であった。良経も、この19日から御不例とのことで参上する。昏に臨みて、宰相中将からの招請によって鳥羽の宿所に向う。歌を見合す為だった。
4月26日
・鳥羽殿初度歌会。定家、先ず良経の許に参ず。今日の御歌、昨日仰せ合されたものである。重ねてこれに感想を述べる。定家、この度は、総じて風情ならず、極めて異様の歌である。良経とともに、鳥羽の院に参ず。今日の儀は衣冠の正装という催しがあったが、しかるべきものを持たないので、束帯して行く。良経、半蔀の車に乗る。この日は、日来聞いていたところの人数と頗る相違していた。慈円は昼から祇候。歌人、伶人参入。序は通親。この日は殿上人による管絃もあった。隆房、笙、大宮大納言、琵琶、公継、拍子、堀川中納言兼宗、筝、雅経、篳篥(ひちりき)等であった。
4月30日
・鳥羽殿影供歌合。同当座歌会。
5月
・この月、俊成、『古来風体抄』(再撰本)を或人に贈る(奥書)
5月10日
・城南寺歌合。
つづく
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