2023年4月9日日曜日

〈藤原定家の時代325〉建久10/正治元(1199)年10月27日~28日 結城朝光の念仏の勧めと述懐 結城朝光の念仏の勧めと述懐 景時の讒言 朝光の反撥 66名署名加判連判状  

 


〈藤原定家の時代324〉建久10/正治元(1199)年10月 頼朝政権確立過程における梶原景時の役割 より続く

建久10/正治元(1199)年

10月27日

・梶原景時、結城朝光が新将軍に謀叛の気持ちを抱いていると讒訴。

これが、御家人の間に知れわたると、彼らは反撃。有力御家人66名が結束し、景時に対し、文治以降、その讒により命を落としたり、失脚した人々は数えられないくらいだとの弾劾文をつきつける。

安達盛長・和田義盛(1147~1213)が強硬派。義盛と盛長は、三浦義村に対し、「早く同心の連署状を勒し、これを訴申すべし、彼の讒者(景時)一人を賞さる可きか、諸御家人を召仕せらる可きか、まず(将軍の)御気色を伺い、裁許なくんば直ちに死生を諍う可し」と言ったという(「吾妻鏡」)。

頼朝・頼家2代にわたり寵愛をうける梶原景時への不満(頼家の乳母夫の立場を利用し、讒訴による裏切る)、頼朝時代に封印されていた不満、幕府創立以来の功臣・宿老を軽んずる頼家の態度への不満が噴出。

結城朝光の念仏の勧めと述懐

10月25日、御所内で、結城朝光が「夢想の告げ」があったとして頼朝をしのび、弥陀の名号(みょうごう)を一万回唱えようと傍輩に勧めた。その時、「忠臣は二君に事(つか)えず」(『吾妻鏡』10月25日条)というが、頼朝から厚恩を蒙った者として、その死去の際に出家遁世しなかったことが悔やまれる。そればかりでなく、「今の世上を見るに、薄氷を踏むがごと」き状況であると吐露した。

「結城の七郎朝光御所侍に於いて、夢想の告げ有りと称し、幕下将軍の奉為に、人別一万反の弥陀名号を傍輩等に勧む。各々挙ってこれを唱え奉る。この間朝光列座の衆に談って云く、吾聞く、忠臣は二君に仕えずと。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻遺言有るの間、出家遁世せしめざるの條、後悔一に非ず。且つは今世上を見るに、薄氷を踏むが如しと。朝光は右大将軍の御時無双の近仕なり。懐旧の至り、遮って人々の推察在り。聞く者悲涙を拭うと。」(「吾妻鏡」同25日条)。

景時の讒言

翌々日、御所に仕える女房阿波局(政子の妹、頼朝の異母弟阿野全成の妻)が朝光に、梶原景時の讒訴(ざんそ)によって、誅戮(ちゅうりく)の対象になっているとひそかに告げた。その理由は、一昨日の「忠臣は二君に事えず」と述懐したことにあった。これを景時が知って、この言は頼家をそしることばで、頼家に仇をなすものである。御家人たちに対するこらしめとするため、早く処罰しなければなりません、と頼家にくわしく申し上げていた。

朝光の反撥

朝光はこの話をきいてあわてたが、よく考えてみると、はらわたがにえくりかえるように無念である。そこで三浦義村のところにいって相談し、二君に事えずといったからといって重罪に処せられなくてもよかろうと歎いた。義村は、事態は重大である。用意周到に計画しないと、これは切り抜けられない。いったい、文治よりこのかた、景時の讒言のために、殺されたり、所領を没収されたものが幾人いるかわからない。先日、安達景盛が殺されかかったのも、愛妾を頼家に奪われたので景盛が叛こうとしているとつげた景時の讒言が事のおこりである。こんなことが続いていると、その積悪は結局頼家に及ぶ。世のため、君のため、退治しなければならぬのは景時である。とはいっても、武力で事を決しては、国の乱をおこすようなものだから、まず宿老の人たちと相談しよう、といい、使を遣わして、和田義盛・安達盛長らを迎え、一部始終の話をきかせ。二人は、早く同心連署状を作り、景時が大切か、われわれ一同が大切か頼家に訴え、裁許がなかったら直接合戦して雌雄を決することにしようということに。義村は、仲業は筆がたつし、景時に怨みがあるから、あれに文章をかかせようということになり、仲業もまた早速かけつけて来て、話をきき、手をうって喜び、文章のことを引うけた。

「女房阿波局結城の七郎朝光に告げて云く、景時が讒訴に依って、汝すでに誅戮を蒙らんと擬す。その故は、忠臣は二君に仕えざるの由述懐せしめ、当時を謗り申す。これ何ぞ讎敵に非ざるや。傍輩を懲肅せんが為、早く断罪せらるべきの由具に申す所なり。・・・前の右兵衛の尉義村と朝光とは断金の朋友なり。即ち義村が宅に向かい、火急の事有るの由これを示す。義村相逢う。朝光云く、・・・凡そ文治以降、景時が讒に依って命を殞し失滅するの輩、勝計うべからず。或いは今に見存し、或いは累葉愁墳を含むことこれ多し。即ち景盛去んぬる比、誅されんとするも彼の讒により起こる。其の積悪、定めて羽林に帰し奉るべし。世の為君の為、退治せずんば有るべからず。然れども弓箭の勝負を決せば、また邦国の乱を招くに似たり。須く宿老等に談合すべしてえり。詞終わって専使を遣わすの処、和田左衛門の尉・足立籐九郎入道等入来す。義村これに対し、この事の始中終を述ぶ。件の両人云く、早く同心の連署状を勒めこれを訴え申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を召し仕わらるべきか。先ず御気色を伺い、裁許無くば直に死生を諍うべし。・・・」(「吾妻鏡」同27日条)。

10月28日

・御家人一味同心して連判状に署名加判

10月28日、朝から鶴岡八幡宮の廻廓には、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・小山朝政・足立遠元・和田義盛・畠山重忠、その他そうそうたる御家人が陸続と集まった。これらは皆、景時反対に一味同心を神前に誓うためである。暫くして仲業が訴状の文章をもって来て読み上げた。「鶏を養う者は狸を畜(か)わず、獣を牧(か)う者は豺(やまいぬ)を育てない」という文章に義村は感心した。一同署名加判して連判状をつくった。人数は66人である。そしてこれを義盛・義村らが、大江広元に渡した。

「巳の刻、千葉の介常胤・三浦の介義澄・千葉の太郎胤正・三浦兵衛の尉義村・畠山の次郎重忠・小山左衛門の尉朝政・同七郎朝光・足立左衛門の尉遠元・和田左衛門の尉義盛・同兵衛の尉常盛・比企右衛門の尉能員・所左衛門の尉朝光・民部の丞行光・葛西兵衛の尉清重・八田左衛門の尉知重・波多野の小次郎忠綱・大井の次郎實久・若狭兵衛の尉忠季・渋谷の次郎高重・山内刑部の丞経俊・宇都宮の彌三郎頼綱・榛谷の四兵衛の尉忠季・渋谷の次郎高重・山内刑部の丞経俊・宇都宮の彌三郎頼綱・榛谷の四九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋の次郎義清・東の平太重胤・土肥の先次郎惟光・九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋の次郎義清・東の平太重胤・土肥の先次郎惟光・天野民部の丞遠景入道・工藤の小次郎行光・右京の進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊に群集す。これ景時に向背する事、一味の條改変すべからざるの旨敬白するが故なり。頃之仲業訴状を持ち来たり、衆中に於いてこれを読み上ぐ。鶏を養う者狐を蓄えず。獣を牧う者狼を育ざるの由これを載す。義村殊にこの句に感ずと。各々署判を加う。その衆六十六人なり。爰に朝光兄小山の五郎宗政、姓名を載すと雖も判形を加えず。これ弟の危うきを扶けんが為、傍輩皆身を忘れこの事を企つの処、兄として異心有るの條如何に。その後件の状を廣元朝臣に付す。和田左衛門の尉義盛・三浦兵衛の尉義村等これを持ち向かう。」(「吾妻鏡」同28日条)。


つづく


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