2023年4月23日日曜日

〈藤原定家の時代339〉正治2(1200)年10月1日~25日 定家、後鳥羽院より「所存憚リ無ク申スベン。申サズバ其ノ詮ナシ。汝ガ所有ヲ以テ聞キ召サンガタメニ、故ニ今夜召サルベキナリ。」と言われ、思う所を述べる。「老者目眩キ転心迷フ。但シ恐ルルニ依り、具サニ所存ヲ申シ了ンヌ。」

 


〈藤原定家の時代338〉正治2(1200)年9月11日~30日 定家、院の御所二条殿に招かれ歌合に出席 定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる より続く

正治2(1200)年

10月1日

・定家、兼実の許に行き、良経同座、夜前の歌合の事などを申す。歌を御覧になり、定家の歌がもっともよいと仰せられる。

式子邸に参向。春宮(順徳)を式子の御猶子にするということが決りそうな由、そのため、御所修理の事など、御不例中いかがと案ずる。

昏黒に退出の途中、六条の辻を過ぎる頃、院よりの御教書の使に行き合い、歌会あり、只今参上すべしと。馳せ向い、題を給わる。

院の仰せには、カカル所へ参入、所存憚リ無ク申スベン。申サズバ其ノ詮ナシ。汝ガ所有ヲ以テ聞キ召サンガタメニ、故ニ今夜召サルベキナリ。老者目眩キ転心迷フ。但シ恐ルルニ依り、具サニ所存ヲ申シ了ンヌ。衆議判卜雖モ大略定メ申ス。次ニ仰セニ依り詞ヲ書ク。此ノ事、凡ソ周章スルト雖モ、只勅走ニ随フノミ。次ニ作者ヲ顕シ、重ネテ之ヲ読ム。其ノ恐レ多シ。但シ御製負ケ無シ。之ヲ以テ冥加トナス。次ニ又御会アリ。題ニ云フ、社頭ノ霜。東路ノ秋月。又之ヲ承ハル。又番ヒヲ結ブ。又読ミ了ンヌ。判ノ詞ヲ書カズ。御製負ケ無シ。悦ビトナス。暫クシテ入リオハシマシ、即チ退出ス。今夜ノ儀、極メテ以テ面目タリ。存ズル外ノ忝ナキナリ」

定家は「目眩み心転迷(まろ)んだが、思う所を具さに申し上げた」と記す。内容については記されていないが、院が次に目指す仕事 - 勅撰集の編纂のことなども話題になったのではなかろうか。

10月2日

・定家、命により公経邸に向かい、歌のことを示し合わす。

八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。風病連夜更に発り、為す方なし。よって沐浴。

10月3日

・定家、良輔家作文

10月4日

・定家、御堂幷に南殿に参ず。また院に参上。家長を以て、しばらく伺候すべき由、仰せられる。十首の歌合(『仙洞十人歌合』)、俊成の許に持参するよう仰せられる。但し夜になったので、明日早朝参ずべき由仰せあり。

10月5日

・定家、院参。数刻伺候する。

申始許りに、大蔵卿を以て歌合一巻を給う。俊成の許に持参、仰せの旨を申す。

10月7日

・未刻に家司文義、為家を相具して来る。袴を着せて相乗りて御所に参ず。慈円同座あり。慈円の簾中に召し入れ、手本一巻を賜って退下。

又僧都の宿所に向い、同じく手本を賜る。御堂に参じ、御覧じて退下。この日の為家は衣装は、裏まさり蘇芳の織物、狩衣、黄青き裏表、濃き蘇芳の単衣、紫織物の指貫、濃き下袴という、幼童にふさわしい優美なものだった。吉富庄の下司男が、鶴の駿馬一匹を献ずる。

10月9日

・定家、春日殿の院に参ずると、歌合急ぎ献ずべきの由、俊成に申すべしとの事であった。俊成、歌合に加判して院に献ず

10月10日

・頼家、貢金500両、馬20頭を京都に送る。

10月10日

・定家、膝股大いに痛み、歩行困難、しかし車に扶けられて乗り参内。戌の時許りに院より五首の題を給う。召しあり、病を扶けて、騎馬で馳せ参ず。中島・神前にて歌の披講あり。定家・寂蓮・具親等参上。定家と寂蓮が定め申す。「恐レ極マリ無シ」。御製・慈円・家隆等であった。帰宅して、病気甚だ悩む。

10月11日

・園田成家、大番役で上洛した際、法然上人に帰依して出家。

10月11日

・定家、膝股激痛にて歩行苦痛。兄成家と共に藤原定能の堂供養に参列

10月12日

・源道親家影供歌合、定家、再三招きがあったが病のため不参加、歌を送る。病悩真実不快。俊成は出席、勧盃を勤める。

10月13日

・定家、病気いよいよ重し。夜前、院密々通親の影供所に御幸と。当座の歌合あり、通親の催しにより、俊成が影前の勘杯と。後に兵衛大夫家長が消息して、夜前の定家の初冬の歌、殊に院の叡感あり、其の場では負と定められたのを、召し寄せて勝に定められたという。

「存外ノ面目ナリ。但シ狂歌ナリ。慮ハザルモ御感、冥加卜謂フベシ。」

このごろの冬の日かずの春ならば谷のゆきげにうぐひすの声

「此ノ歌頗ル時儀ニ叶フベキノ由、内心ニ之ヲ存ズ。果シテ以テ此ノ如シ。自愛スル者ナリ」

歌の評価が後鳥羽院と一致した。しかもこれは自信作だった。

10月14日

・定家、咳病殊に甚だし。夜に入って、静快阿闇梨の愛童で、定家も時々召入れて使う、黄金丸を元服させる。美童らしい。

10月15日

・定家、咳病、猶術なし。

吉富庄の下司俊康、葦毛の馬一匹を進む。異様のものだったが受ける。

10月16日

・定家、咳病、心神甚だ悩む。

良経、内々の仰せ、成家朝臣(定家兄)、新女院に昇殿、もしくはその心あるかと。その趣を俊成に申すと、もっとも本意という、その旨良経に申す。

10月17日

・定家、心神なお辛苦極まりないが、後鳥羽院の殷富門院の御堂供養供奉のため、手足ばかりを洗い、束帯して参院する。守覚法親王も参入。

10月18日

・定家、良経邸に参ずると、銀花(優曇華)が開き、その事によって物忌と。定家は不吉、もっとも御慎みあるべきことにて、他所に渡られるのがよろしかろうと申上げる。去る夏の頃にもこの事があった。

10月19日

・定家、宜秋門院殿上始に参仕

10月20日

・定家、日吉社に参詣

10月22日

・定家、式子邸に参向。

10月24日

・定家、病気殊に不快なれど、相扶け院参。退出して、式子の許に参入。

咳病殊更に発る。終夜なす方なし。これ以降11月中旬まで体調不良。

10月25日

・定家、病悩殊に辛苦。冴寒を快くするために沐浴して籠居。


つづく


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