2023年4月25日火曜日

〈藤原定家の時代341〉正治2(1200)年11月26日~12月28日 定家体調悪化続く(風病、咳病) ほぼ連日式子内親王邸を訪問 後鳥羽院水無瀬御幸に参仕 頼朝以来の有力御家人の支持を失いつつある頼家    

 


〈藤原定家の時代340〉正治2(1200)年10月26日~11月25日 頼家従三位叙任 定家正四位下叙任 「四旬ノ衰鬢、病ヒ愁ヒト許リ合フ。旦暮ニ世路ヲ営ム。弾指スベシ」 定家、連日窮屈、病身まことに以て辛苦す より続く

正治2(1200)年

11月26日

・近江国坂田郡柏原荘の地頭・柏原弥三郎、数々の非道を働いたとして追われる身になり、伊吹山に逃げ込んで山中に身を隠す。翌年佐々木信綱がこれを誅する(「吾妻鑑」)。酒呑童子の父・伊吹の弥三郎のモデルと言われる(佐竹昭広「酒呑童子異聞」)。

11月1日、近江国で勅勘を受けた柏原弥三郎為長追討の宣下が佐々木定綱・源仲章からもたらされ、幕府は4日、渋谷高重と土肥先次郎惟平(岡崎義実の猶子)を追討使として派遣を決定。しかし、高重らが到着する以前に、官軍(源仲章・佐々木定綱の軍勢か)によって柏原庄は押さえられ、水尾谷十郎が背面から攻撃を加えたため、柏原弥三郎等は姿をくらまし、ついに居所を見つけだせずに12月27日、鎌倉へ帰還。(「吾妻鏡」)。院側は兵馬の権が朝廷にあることを事実をもって示そうとした。

「佐々木左衛門の尉定綱が飛脚参着す。申して云く、柏原の彌三郎、去年三尾谷の十郎が為に襲われるの刻、逃亡するの後行方を知らざるの処、廣綱弟四郎信綱件の在所を伺い得て、今月九日にこれを誅戮すと。」 (「吾妻鏡」翌建仁元年5月17日条)。

11月28日

・内裏二首歌会

11月29日

・定家、風病を病む。翌日より咳病も起こる。

11月30日

・定家、風病、甚だ不快。日吉社に参詣。夜、通夜する。~12月7日帰京。

11月30日

・七条坊門で大火。龍寿御前宅全焼。

12月1日

・定家、咳病、極めて悩む。夜に入り宮廻り、通夜。

12月2日

・定家、咳病、殊に悩む。心神ありて亡きが如し。宮廻り出来ず、通夜するが心労極まりなし。

12月3日

・後鳥羽上皇ら、熊野参詣の途中で盛大な和歌の会を催す。

12月3日

・定家、心神いささかよろしきにより写経。宮廻りせず。

12月4日

・定家、又写経(仁王経2巻・金剛般若経)。

12月5日

・定家、写経終る。京の使の便りを聞くに式子の御足、大いに腫れると。驚き少なからず。

12月6日

・定家、小仏供養

12月7日

・定家、暁更日吉社より帰洛。

式子大事におわします由、家衡来りて告ぐ。巳の一点に式子邸参入。今日御灸あり。

「此ノ事極メテ怖レ有り。折節浅猿(おりふしあさまし)。偏ヘニ是レ天魔ノナス所ナリ。此ノ吉事、定メテ遂ゲラレ難シ。御所ノ修理掃除、御悩ノ間、始ムルコト相応セザルカ。近代ノ医家、事ニ於テ憑ムベカラズ。雅基偏ヘニ御熟ノ由ヲ申シ、冷ヤシ奉ル許リ。頼基御風脚気ノ由ヲ申ス。然レドモ用ヒラレズト云々。午ノ時許リニ御灸ヲ始メラル。但シ、更ニ熱ク思シ食サズト云々。此ノ条又恐レ有り。此ノ御辺、本ヨリ御信受無シ。惣ジテ御祈り無シ。今日、人ノ申スニ依り、形ノ如クニ御祈り等ヲ行ハル。(二位士公ノ御祭。予、咒咀ノ御祭。女房泰山府君ノ御祭ナリ。又御修法一壇ノ事、□□□申シ行フ事未定。申ノ時許リニ退去)。春宮ニ参ズ。戸部参会ス。今日七瀬ノ御祓卜云々」

12月8日

・定家、式子邸参入。実快法眼・卿二品参会。御有様大略同じ。宜秋門院仏名に参仕

12月9日

・定家、寒風術なきにより、召しありといえども参上せず、終日倒れ伏す。

酉の時許りに有家が重ねて召すの由を示す。

秉燭の後、騎馬にて、法性寺御造作の所に参ず。四首の歌を詠む。詩、良経・良輔・有家・為長・威信。歌、良経・隆信・定家・隆範・業清。六韻の詩、四句を以て、四首の歌に合わせらる。夜半許りに御供して帰り退下。

12月10日

・定家、良経の許に参向。ついで式子邸参入。御足ただ同じ事なり。夕、春宮に参ず。

夜に入りて又、式子の許に参向。

今夜、進物屋の北の方に宿し候す。光資等宿所に来る。今夜、内裏に詩歌ありと。毎事興なし、病と称して参せず。

12月11日

・定家、典薬頭頼基の許に行く。頭にシイネ(こぶ)をみつけたので診せに行った。

12月12日

・定家、今朝、頭に鹿の角をつける。これは定康の申す所による。昨日頼基は、療治に及ばずと診断した。

12月13日

・定家、式子邸に参向。昨日頼基参じたが、申す所又用いられずと。雅基大針を加える。今日は別の事なしと。退出して春宮に参ず。

12月14日

・定家、夜、式子邸参向。卿二位に謁し、やや久しく述懐。式子なお以て増気。更に以て言うに足らず。卿典侍少納言内侍を以て、伝え申さるる事あり、よってお返事を言上す。またお言葉を承り、又二条殿に参じ、これを通達して退出す。

「此ノ事、終始不吉カ。吉事ノ聞エ、折節魔性ノナス所、猶々言フニ足ラズ。傍家定メテ解口カ。哀レムベシト云々」

12月15日

・源仲国妻、後白河院託宣と称して雑言するとの噂

12月15日

・定家、式子邸参上。上下共、医師時成朝臣の帰洛を待つ。侍を稲荷に遣わし、之を待つと。卿二位と謁談。此のついでに語られていう。去る頃、仲国の妻(二品の縁者)後白河院に託して、世間の事、種々の雑言・懇望・述懐等を称す。其の事、粗々世間に風聞すと。日没以前に、時成参入、殊に申すところなしという。日来療治よろしきの由申すと。

12月18日

・定家、小浴の後、良経の許に参向。ついでに式子邸に参向。昨日と大略同じと。後鳥羽院阿彌陀講に参仕

12月19日

・定家、式子邸に参入。昨今、御有様ただ同じ事である。ただし式子の御気色、頗るよろしきに似たり。御堂例講・内裏仏名に参仕。

12月20日

・定家、良経邸参向。若君御元服なり。この間に院より御教書あり。来る23日水無瀬御幸。水干を着て供奉すべしと。承る由申す。元服の若者従五位上良平、禁色昇殿と。

12月22日

・定家、隆信来臨、明日の出立のことを問う。水干の事など多く示し合わす。申の時許リに入浴。心神頗る悩む。風邪の所為か。

12月23日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(~25日)。水干を着し、鳥羽殿に参ず。殿上人の船に乗り、水無瀬殿に着く。遊女等参じ、郢曲を歌う。奈良法師原、御前に参じて、雑遊する。退出して山崎の油売りの小屋に宿る

12月24日

・定家、又郢曲、「今夜参上セズ。推参恐レ有ルノ故ナリ」

12月25日

・定家、後鳥羽院帰洛。狩衣。路次、風猛烈、病気なす方なく、七条朱雀の辺りで車に乗る。

かくて申すの時に帰宅。更に酉の時に、束帯して仁王会につらなる。この忙しさ。

12月26日

・定家、式子邸参向。御足、大略御減の由、医家申すと。「喜悦極マリナシ」。ついで通親の影供に参入。俊成も出席。院も御幸。

12月28日

・頼家、政所に命じ諸国の田文(田地の所有や面積が記された土地台帳)を取り寄せ、御家人が武功で入手した新恩の領地について、500町を限度とせよと命令。これを越えたものは没収し、無足(土地なしの者)の者に与えるという。実際には無足の近習への給与であった。宿老たちは頼家の行為を諫めた。

政策に反対したのは、三善善信を筆頭とする京から鎌倉に下った行政官僚たち。善信が地頭に任命された備後国太田庄(広島県世羅郡)は613町あり、大江広元・中原親能も同じであった。かれら行政官僚も多くの新恩地を給与されており、所領に関していえば、有力御家人とおなじであった。頼家の政策は、対立する可能性のあった東国の御家人と行政官僚たちの利害を一致させることになった。かれらは、頼家に頼朝と同じような権限を与えることは避け、そのためには、頼家の側近勢力を除き、頼家の後見勢力・支持勢力の勢力拡大を阻止しようと動くことになる。

「金吾(頼家)、政所に仰せて諸国の田文等を召し出でさる。源性をしてこれを算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人ごとに五百町を過ぐるに於ては、その余剰を召し放ち、無足の近仕等に賜わるべきの由、日来内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、広元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁い、世の謗り、何事かこれに如かん哉の趣、彼の朝臣以下の宿老ことに周章す。今日、善信の如き頻に諷詞を尽くすの間、□に以てこれを閣かる。明春、御沙汰あるべしと云々」 (「吾妻鏡」同日条)。

以後、頼家の将軍としての不適格性を物語る挿話を『吾妻鏡』の中に拾えば、ほとんどきりがない。

例えば、鶴岡の臨時祭・放生会などに参宮しなかったり、あるいは随兵もなく八葉の車に乗って出かけるという新儀で古老の眉をひそめさせたという事件など。また、頼家がことのほか好んだ狩猟と蹴鞠についてもその行き過ぎた熱中ぶりが記されている。犬を飼って、狩猟を好む側近たちに毎日交代で餌を与えさせたとか、連日、政務を拗(なげう)って御所で蹴鞠に耽ったといった類である。特に蹴鞠にまつわって、母の政子に諌められたという話が伝わっている。"

12月28日

・雪飛ぶ。定家、式子の許に参向。事の外御減の由。悦び極まりなし。


つづく

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