正治3/建仁元(1201)年
6月1日
・相模国の江島神社に参詣した頼家は、大磯で一泊し、遊女を召して、歌曲を尽させた。このとき、愛寿という遊女がいたが、同僚に容姿を嫉妬され、名簿から外されていたため、お召しがかからなかった。このことを悲しんだ彼女は出家してしまった。頼家はこのことを聞いて残念がり、たくさんの品物を授けたが、彼女はこれを受け取らず、すべて高麗寺に奉納して逐電してしまった。
6月6日
・現在までの最大の歌合とされる「千五百番歌合」の基礎となる百首歌が後鳥羽院より召される。鳥羽院自身を含めて左右15人計30人の歌人が百首歌を詠じ、これを競うという古今未曾有のゲーム。
「この間、家長を以て百首いそぎ進ず可きの由仰せごとあり。」(「明月記」同日条)。
6月11日
・定家、百首を持って院参。右中弁につけて進めるところ、よろしき由、御気色あり。
「巳時百首を持参し、右中弁に付し進め入る。」(6月11日条)
6月13日
・後鳥羽院は、直接歌合の席で、定家の歌を褒めるだけでなく、内々、通親や通具、北面の人々などにもそのことを語る。定家は、それを漏れ聞いて感激、心中涼しき思いである。
「今日内府幷ニ宰相中将・自余ノ北面等多ク百首殊ニ宜シキノ由、御気色アルノ趣、粗々之ヲ示ス。日来沈思シ、心肝ヲ摧ク。今此ノ事ヲ聞ク。心中甚ダ涼シク、感涙ニ及ブ。生レテ此ノ時ニ遇フ、自愛休ミ難シ。」
6月16日
・定家、院の御製を披見、感涙にむせぶ。通親の歌も見る
「六月十六日。少時シテ召シアリ御前ニ参ズ。今度ノ御製且ツ見ルベキノ由、仰セ事アリ。之ヲ披クニ、金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルベキ人無シ。毎首思義スベカラズ。感涙禁ジ難キモノナリ。閑カニ見ルベキノ由、仰セ事アリ。何レノ方ニカオハシマシ了ンヌ。内府又謁セラル。其ノ歌ヲ披キ見了ルノ後、退下シ休息ス」
「さてこの年は、後鳥羽院は水無瀬離宮での遊女やら白相子やらを総揚げしての遊興とともに、憑かれたようにして和歌に熱中しはじめ、その出来映えもまた定家をして「金玉ノ声、今度凡ソ言語道断ナリ。今ニ於テハ、上下更ニ以テ及ビ奉ルべキ人無シ。毎首不可思議。感涙禁ジ難キ者ナリ」(六月十六日)と感歎させるはどのものであった。この院は実際に主催者としても実践者としても、競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、それから何軒もの別邸と庭園の建造等々、何をさせても、いわばルネサンス人的な幅をもっていて、京都宮廷などというせせこましいところに閉じ込めておくのが惜しいくらいのものであった。後には承久の乱という戦争までを発起する。
しかも後鳥羽院御口伝などの歌論書にも見られるように、他の歌人の歌の鑑賞についても批評家として充分に自立しえていたと言っていい。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)
6月22日
・定家、院にて出題、密々歌合あり。この日、俊成、俄かに発病
6月23日
・定家、小松谷御堂供養に参仕。俊成の百首を院に持参。
6月26日
・定家、後鳥羽院より五首題を賜り詠進。
6月28日
・頼家、城小太郎資盛のおば、坂額(はんがく、板額)を見た。これは5月に資盛が越後で叛旗をひるがえしたのを征伐し、その時生捕ったもの。坂額は重忠や義盛がひかえている侍所の中央を通り、頼家の座所近くまで進んだが、少しもへつらう色なく、しかもなかなか美人であったという。
6月29日
・阿佐利与一義遠が坂額の身元を引き受けたいと申し出て許され、義遠は坂額を伴って甲斐国に下向。坂額のその後の消息は不明。娘を産み、その娘が源信継の妻となるとの所伝あり。
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