2023年4月10日月曜日

〈藤原定家の時代326〉建久10/正治元(1199)年11月10日~30日 大江広元の苦衷 広元、弾劾状を頼家に取り継ぐ 梶原景時、弁明せず一宮に引き揚げる 

 


〈藤原定家の時代325〉建久10/正治元(1199)年10月27日~28日 結城朝光の念仏の勧めと述懐 結城朝光の念仏の勧めと述懐 景時の讒言 朝光の反撥 66名署名加判連判状 より続く

建久10/正治元(1199)年

11月10日

・大江広元の苦衷

大江広元は訴状を受け取ったが迷っていた。頼朝の時から、昵近(じつきん)の奉公をした者で、これを忽ち罪におとすのは可哀そうで、何とかまるく収める方法はないか、とぐずぐずして頼家には知らせないでいた。11月10日、たまたま御所で義盛と広元が出会い、義盛は、訴状は頼家に披露したと思うが、御機嫌はどうだったかと尋ねた、広元が一瞬たじろいだので、義盛は広元を睨みつけて、まだぐずぐずしているのか、あんたは幕府の政所を長い間預っている重臣ではないか、景時一身の権威を怖れて、みんなの不満を放っておくという法はないだろう、いまここで訴状を披露すると約束されたいと詰め取り、それを約束させた。"

「兵庫の頭廣元朝臣、連署状(景時を訴え申す状)を請け取ると雖も、心中独り周章す。景時が讒侫に於いては左右に能わずと雖も、右大将軍の御時、親しく昵近の奉公を致す者なり。忽ち以て罪科を被ること、尤も以て不便の條、和平の儀を廻すべきかの由猶予するの間、未だこれを披露せず。而るに今日、和田左衛門の尉と廣元朝臣と御所に参会す。義盛云く、彼の状定めて披露せらるか。御気色如何にと。未だ申さずの由を答う。義盛眼を瞋らして云く、貴客は関東の爪牙耳目(そうがじもく=手足となって働く者)として、すでに多年を歴るなり。景時が一身の権威を怖れ、諸人の欝陶を閣く、寧ろ憲法に叶わんやと。廣元云く、全く怖畏の儀に非ず。ただ彼の損亡を痛むばかりなりと。義盛件の朝臣の座辺に居寄り、恐れずんば爭か数日を送りべけんや。披露せらるべきや否や。今これを承り切るべしと。殆ど呵責に及ぶ。廣元申すべきの由を称し座を起ちをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月11日

・この頃、源頼家が連日比企能員邸で蹴鞠に興じる。

11月12日

・この日、迷った広元がようやく弾劾状を頼家に取り継ぐ。

頼家は、即座に景時の弁明を求めたが、景時は翌日になっても陳述せず、子息景茂ひとりを鎌倉に止め、他の一族を引きつれて相模国一宮(神奈川県寒川町)の所領にひきあげる。

「廣元朝臣件の連署申状を持参す。中将家これを覧玉い、即ち景時に下さる。是非を陳ぶるべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」同12日条)。

「梶原平三景時彼の訴状を下し給うと雖も、陳謝すること能わず。子息・親類等を相率いて相模の国一宮に下向す。但し三郎兵衛の尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留むと。」(「吾妻鏡」同13日条)。

11月18日

「中将家比企右衛門の尉能員が宅に渡御す。南庭に於いて御鞠有り。・・・その後御酒宴の間、・・・羽林景茂を召し仰せて云く、近日、景時権威を振うの余り、傍若無人の形勢有り。仍って諸人一同の訴状を上ぐ。仲業即ち訴状の執筆たるなり。景茂申して云く、景時は先君の寵愛殆ど傍人に越ゆると雖も、今に於いてその芳躅無きの上は、何の次いでを以て非義を行うべきか。而るに仲業が翰墨を慎み、諸人の弓箭を軼怖すと。列座の傍輩、景茂が御返事の趣神妙の由密談すと。羽林今夜御逗留なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「早旦能員が宅に於いて御鞠有り。人数昨日に同じ。」(「吾妻鏡」同19日条)。"

11月30日

・幕府、武蔵の田文を整備(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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